幸福の輪 ―赤編―


幸福の輪 ...03

幸福の輪 ―赤編―

この場所では、様々な"音"がする。靴の踵が床を叩く音。エレベーターの階層を告げる声。忙しなく鳴り続けるセキュリティゲートのタッチ音。小難しい専門用語が交わされる会話。中でも一際目立つ音は、ゲーム機から出ている効果音であった。目立つ、というのは、その音が、この場所と時にそぐわないからだ。
場所、即ち音が放たれる居所は、ある会社の玄関フロアである。ある会社とは、国の中でも有数の大手企業で、取り扱う分野は幅広い。独立したてのこの国では、生命線の一つとも呼べるものだ。そんな会社の、"顔"とも呼べる玄関フロアの一角。"彼"には大きすぎるほどの大仰なソファーを陣取り、人目も気にせずにゲーム機の効果音を大音量で流し、床に着かないほどの細く短い足をブランコよろしく揺らす主は、少年であった。
入口からもひと目で見える位置にある、秒数まで事細かに刻むデジタル時計は、もうすぐ夜の九時を刻もうとしている。少年が大きすぎるほどのその時計を見上げる。シンプルに分数まで記せば良いものを、逐一知らせる秒数の桁は、いつも目をチカチカさせる。余計に目が悪くなってしまうではないか、と不満げに眼鏡を押し上げた。

家にも帰らず、到底用事があるとは思えない、こんな場所で、こんな時間まで、少年は何を待っているかというと、それは人であった。正確には、ある人物が来るまでの時間潰しであった。

「アラタ!ごめんね待った?」

待ち人がずり落ちた重そうな鞄を肩にかけ直しながら、少年の前まで走ってくる。少年、アラタはため息をついて、また眼鏡を押し上げた。

「今日は夕飯食べるって言うから待ってたのに、遅い」
ゲーム機を乱暴にランドセルに投げ入れ、出迎える素振りもせずに、自動ドアに向かって歩く。その声は苛立っていた。慌てて後を追う待ち人は、おろおろと情けのない顔で様子を伺っている。

「本当にごめんね…ちょっと立て込んでて…今日はデザートもつけるから!」
その言葉に、さらに苛立ちを募らせた。

「オレ、もう三年生になるんだけど。てゆーか、甘いの嫌いだし。いい加減覚えてよ。お母さん」
お子様用のご機嫌取りの方法に対して、彼の小さなプライドが反抗心を覗かせる。待ち人とは、彼の母親であった。

彼の母親は、彼が暇を潰していた会社で、技術者として勤めていた。九歳の息子を持つ母親としては、勤務時間が遅過ぎはしないか、と他人ですら心配になるほどだが、アラタは実際の年齢よりもしたたか者であった。そのため、わざわざこうして時間を作らずとも、食費だけ持たせてくれれば、勝手に何か食べるのに、と不平を漏らすことも多々あった。しかし、母親は仕事のせいであまり構ってやれないならばせめて、と食い下がった結果が、小学生には遅すぎる夕飯だったのだ。欲を言えば、母親の手料理が食べたい。確かに、ファミリーレストランの出る料理はどれも美味しいが、どこか作り物としてのわざとらしい味が気に入らない。トントントン、と包丁でリズムよく具材を切り、香り立つ夕飯の匂いに誘われ、ご飯ができたわよ、という母親の声を聞きながら、食器を出し、豪華とも言えない程度の量の料理を熱々のうちに頬張る。本音を言えば、そういう夕飯をしたい。だが、彼の母親は決して器用とは言えないくらい、一を頼めば十までも励んでしまう性格であった。彼の母親に対しての悪態は、それを気遣ってのことだった。

「このプロジェクトがひと段落ついたら、お休みもらえるから…もう少し待ってね…」
「…まだ"アイツ"と働いてるんだ…」
ザクッ。ハンバーグの真ん中にフォークを突き立てる。

「アラタ…"アイツ"なんて言い方しちゃダメよ…」
「じゃあ、もうお父さんでもなんでもない奴はなんて呼べばいいんだよ!」
ついに、怒りが爆発し、大声を張った。

彼の母親と父親は、数ヶ月前に離婚していた。彼くらいの難しい年頃には、ショッキングな出来事であろうが、彼のナーバスな側面は、そこが直接的な原因ではなかった。元々、彼の父親は、世間の一般的な、休日に一緒にキャッチボールをしてくれるようなタイプの人物ではなかった。口数も少なく、アラタに対しても干渉しては来ない。たまに声をかけたかと思えば、勉強はしているのか、遊んでばかりいるな、と注意する程度の、威厳も、信頼もないようなそんな父親であった。家に滅多に寄り付かず、背広を着て、年がら年中仕事に明け暮れている父親が、戸籍上、父親という肩書きがなくなったというだけの話だった。彼の苛立ちは、むしろ母親にあった。
母親が息子と食事を取るにも、こんな夜中になってしまうほどの理由は、彼女が言った"プロジェクト"、つまり、元父親の指揮するチームに人手が足りないということで、補充されたからだ。その上、母親が自ら志願したと言うのだから、アラタにとって、その行為は到底別れた妻の行動とは思えないものだった。むしろ、裏切りである。自分との時間よりも、離婚した夫を取っているように感じる。

「"あの人"、不器用だから大変でも誰かに手伝ってって言えない人だし、お母さんは一時的にお手伝いするだけだから」
そう言い訳する母の顔は、まさに女のそれであった。結局のところ、母親は夫との決別ができていないのだ。アラタにはそれが面白くなかった。そんなこともあり、母親が数日帰宅しないような生活を余儀なくされた彼は、母親と喧嘩ばかりを繰り返していた。その日の終わりには、今日も帰れないけれど、明日は家で夕飯を作れそうだから、と謝罪を繰り返す母親に対し、また今日のようなことになるのだろう、と気のない返事をした。翌日、それは嘘となり、そして、彼と母親との最後の会話となってしまうなど、思いもしなかった。

覚えているのは、病室でさめざめと泣く叔父夫婦と、過労による母親の血の通わない死顔。そして、元妻の葬儀に出ることもなく、何度もニュースに流れる父親の顔だけだった。

新たな歴史、輝かしい未来。何を言っている。何を言っているんだ。母さんがいない。母さんのいないこの世界で?何を築くと?何を話しているんだ。指輪?ユビワ?こんな、こんなもののために、何故母が犠牲にならねばならない。母がこんなくだらないプロジェクトを手伝いさえしなければ。父親さえ、いや、あの男さえいなければ、母は死ななかった。あの男は、母の死よりも、こんな馬鹿馬鹿しいものの方が大事なのだ。別れてもなお、ただの補充要員として扱い、使えなくなってしまえば、切り捨ててしまう。許さない。あの男が、母を殺した。母は、あの男に、殺された。あの男に…



「本当にいいのか?アラタ」
最後の荷物を渡し終えると、叔父はアラタを真っ直ぐ見つめた。

「何も…"あの国"の大学じゃなくても…」
母の死後、叔父夫婦とアラタは、外国で暮らした。外国と言ってもそこまで遠くではないが、生まれた国で持て囃される"指輪制度"に叔父は耐えられなかったらしい。自分の妹の命を犠牲にして、成り立つあの国が。アラタを引き取り、養子にならないかと誘ったが、彼は断った。叔父夫婦は嫌いではなかったし、親がいない悲しみもあったが、到底、埋められるものではないことは分かっていた。そして、ぽっかりと空いた穴を埋めるでもなく、大学受験の折に、彼が選んだのは、故郷に戻るという選択肢だった。無論、叔父夫婦は反対したが、アラタは、ここよりもあの国の方が働き口があるから、とだけ返した。9年前の出来事を忘れた訳でも、許した訳でもない。ただ、彼の中で漠然と、気がかりであった。母が関わった指輪制度。果たして、母を生贄した意味はあったのか。それに、母の死を思い出して辛いから、と何故自分が外国へ行かなければならない。今逃げてしまえば、自分は一生、逃げ続けなければならない。そんな人生は、納得ができない。それは、アラタなりの意地であった。見て見ぬふりをする叔父夫婦のようにはなりたくない、という。なかったことになど出来ない。あってはならない。ただ母の死は無駄ではなかった、とそう思いたい。しかし、この選択肢が、間違いだったかどうかは定かではないが、それでも苦難の道であったことだけは、確かであった。




「お客様、指輪のシリアルを記入して頂けますか?」
空欄を指さしながら、女性店員がペンを差し出す。大学での住まいを決め、賃貸借契約書の記入を行っている最中だった。

「すいません。俺、"こっち"来たの初めてで」
客に対して、知っているだろう、と当然のように説明もしない店員に少なからず苛立ちを覚え、作った笑顔をする。

「あ、お客様、"指輪"のご登録はまだされてないんですか?」
「その"指輪"ってのは何ですか?」
だからまずその"指輪"の説明をしろ。こんな女でも働けるのだから、この国の雇用率が高いのも頷ける。

「えっと、指輪というのは、この国では携帯電話みたいなものなんですよ」
「…はあ」
歯切れの悪い返事をすると、イラストをふんだんに使用したパンフレットを出す。最初からそうすれば良いものを、と毒づいていると、再び説明が始まる。

「この指輪というのが、着けた本人の健康状態や感情、思考などを数値化してくれるんです。発売当初は『運命の赤い糸』というシステムが目玉だったんですが、今ではこの指輪でなんでもできちゃうんですよ!例えばお買い物でも、お財布がなくても指輪のシリアルを読み取るだけでできちゃいますし、家の鍵としても使えます!クワタリさんの選んだ物件でも使用できますよ!よろしければ、ウチと契約してるキャリアさんでご契約いただけると、月々の料金がお安くなります!それに、」
「あー、すいません」
テンプレート通りの営業を低い声で遮る。

「俺この後用事あって急いでるんで。キャリアはもう少し考えたいので、鍵は普通のものにしてください」
別段急いでなどいなかったが、この手の話を終わらせるにはこれが一番である。それでもなお、店員は、契約後でも登録をするとお得になる、と暗記したであろう言葉を連ねていた。


アラタにとって、この国は、"異世界"というほどのものではなかった。というのも、もともと住んでいたこともあり、その頃の面影を残したままだったからだ。勿論、叔父夫婦と住んでいた国に比べれば、公共交通機関も、人口もオフィス街も、何もかもが桁違いである。しかし、先ほどの不動産会社での説明を聞き、現実へと引き戻される。指輪、ゆびわ、ユビワ。子供から大人まで、冗談ではなく、本当に、道行く人はほぼ全員つけている。中には、乳児にまでつけている家族もいる。なんて奇怪な国なんだ。よそから『指輪の国』などと呼ばれるはずだ。

普通ならば、血の繋がった両親の手がけた仕事が、ここまで実を結んだ、と喜ぶところだろう。だが、これは父の、憎むべきあの男の成果であり、母の命を犠牲にした結果だ。眩暈がする。吐き気がする。幸福に浸りながら、左手に指輪をはめ、満たされていると思っている国民。誰もが、母の死など、これっぽっちも知らない。むしろ、殺したあの男を崇めてさえいる。
アラタは、持ち帰ったパンフレットの最後のページの小さく写る、久方ぶりの父の顔を見つけ、怒りによって震える。何の冗談だこれは。何なんだ。なんだこの国は。
それからアラタは、知らなければ良いものを、この国での『指輪制度』について調べ始めた。図書館で少しでも関連する新聞の記事を漁り、『指輪制度』を論じている本があれば、何冊でも借りた。自分でも、こんなことは止めよう、と思いはするものの、気付けば何かに取り憑かれたかのように、資料を読みふけった。そうして、膨大な文書から分かったことは、叔父の選択は、正しかったということだけだった。勇んでこの国へと来たものの、自分にできることなど何一つなく、己の無力さを知り、あの男の本性を知らぬ国民と共に暮らすという屈辱に耐えるだけだった。
ではどうしたいのだ。あの男が失脚すればそれでいいのか。皆さん、この男は自分の妻を死に追いやった最低最悪な男です、と公言すれば?

「…違う」
そうだ違う。そんなことがしたいのではない。いや、何かがしたいのではない。ただ、何かしらの納得のいく形であれば良かったのだ。だが、その理想の"納得のいく形"など、自身の中にはないことをアラタは既に悟っていた。


受験生活から開放され、自由を手に入れた若者で賑わう耳障りな喧騒の中、アラタだけは浮かない顔をしていた。ここに集まった大半が何の目的もなく、学歴社会の偏見に当てはまらぬように、とそれだけの理由程度でこの大学の門を叩いた。アラタも例外ではなく、しかし、学歴社会の偏見から逃れるためなどではなかった。むしろ、その理由すらないのだから、四年間の憂鬱が目に見えるようだ。気晴らしに参加したサークルの新入生歓迎会の席でも、気持ちは晴れなかった。
二次会にも来ないか、としつこく誘う上級生を断っていると、同じように駅に向かう者が居た。ちょうどいい、と流れるように付いて行く。互いの最寄り駅を話し、駅の自動改札機で、ふと、あることに気付く。この男、他の連中のように"指輪"ではなく、自分と同じ磁気券を使用している。しかし、左手には指輪をつけている。あのデザイン…どのパンフレットにも載っていなかった。ある程度の確信の下、少々挑発的に尋ねた。

「アンタって法学部だったよな?なのにダミーリングなんだな」
この国では、『指輪制度』による多くの法律や条例が制定されている。そんな国で法律家を目指す者としては、本物の"指輪"を身につけないというのは、営業活動で怪しい水を売りながら、自分だけ水道水を飲むようなもの。制度の説明をするその左手には、本物ではないのだから、信用も得にくいだろう。そして、初対面であるはずが、何やら親しげに話しかけてくるこの男が気に入らなかった。アラタにとってこの男は、"指輪"に踊らされている愚かな国民に映っていたのだ。人当たりの良さそうな表情を少し曇らせる。これで少しは静かになるだろう、と視線を窓に戻すと、電車の移動音に負けぬ声が返ってくる。

「なんだよ!法学部は指輪つけなきゃいけねえなんて法律はねえ!」
「…ハ?」
「だいたいさー!クワタリだって情報科学部だろ?そっちこそダミーつけてるなんておかしいじゃねえか!」
同じような難癖を返してきたことよりも、自身のつけている"指輪"が模造品であることを見抜いていることに驚く。

「何で…分かった?」
「え?だってお前一次会の学割断ってたじゃん。あれってシリアル発行してる正規品じゃねえと出来ねえもんな」
確かに、歓迎会の幹事がシリアル番号を教えろ、と声をかけてきた。しかし、この男、記憶が正しければ席はそれほど近かったとは思えない。

「…意外と抜け目ねえんだな」
「すげー興味本位だけで聞くんだけどさ、なんでダミーリングなんだ?」
人の話など聞かず、自分の聞きたいことを聞きたい時に尋ねる。この手のマイペースな人間は、正直苦手だ。ペースが乱される。

「…なんでって」
言葉に詰まった。遅かれ早かれ、学内でもこのリングは隠せなくなるとは思っていたものの、まさかこんなにも早く来るとは。つい、乱されたペースにより本音が出てしまう。

「気持ち悪いから」
「ブッ!なんだそりゃ!」
返事に困るような回答に対し、吹き出し、手で太腿を何度も叩く。ああ、もう。めんどくせえ。その反応に、アラタはさらに男を遠ざけるべく、批判的な思考を曝け出した。

「俺昔はこの国に住んでたけど、その頃には指輪なんてなくて、外国暮らしから戻ってみりゃ、妙な指輪を赤ん坊までつけてて、気色悪い。今更同じもんつけろって言われてもつけられるかよ」
「へー!外国暮らし!!スゲーな!どこ?どの辺?」
「…お前さあ…」
何だ。何なんだこの男。

「さっきから何なんだ?お前含めてこの国の連中馬鹿にしてんのに、本当に馬鹿なのか?」
「アッハッハ!偏差値で言えばクワタリより高い自信あるけどなー!」
「…あのなぁ」
「そう言いながらお前だって妥協してダミーつけてんじゃん」
「…じゃあ、お前は妥協じゃなきゃ何なんだよ」
「うーん、そうだなー…」
満面の笑みは消え失せ、アラタではなく、車内にある押し付けがましい指輪の広告を見た。

「"つける"ことが常識になって、"つけてない奴"は非常識、みたいになってるこの国に住んでるから、かなー。強いて言うなら」

これが、男、タカとの出会いだった。この出会いは、アラタにとって、衝撃であり、憂鬱な学生生活の救いでもあり、罪悪感の象徴であった。アラタにとってのこの国で暮らす者は、父親と同じ裏切り者であり、彼にとっては敵も同然。そんな中でも、母を犠牲にした"指輪"による新たな"偏見"と戦うことを余儀なくされている者もいることを知る。冷静に考えれば、そんな人間の一人や二人が居たところで、何ら不思議ではない。それでも、彼が己の偏狭さを恥じるには十分であった。しかし、犠牲者という意味では、タカも自分と同じ立ち位置であるにも関わらず、心の底では、彼を許せずにいた。許すことは父をも許すことになり、それは母の死への侮辱へ繋がる。
タカは、良い友人になった。だが、彼を許してはいけない、という強迫観念から、歩み寄ろうとはしなかった。また、良き友人も、それを察してのことかは不明だが、それ以上踏み込もうとはしなかった。


憂鬱な学生時代は、安い珈琲の祝杯で幕を閉め、叔父夫婦への言い訳通り、この国で就職をする。新しい環境によるストレスは多少なりともあったが、アラタは少し安堵していた。ここには、良き友人はいない。友情を求める彼から距離を取るという後ろ髪を引かれる思いをすることもない。時たま酒を交わし、各々の近況を話すくらいでちょうどいい。"指輪"に直接関わることのない勤め先を選んだものの、この国で関わらずに生活するには難しく、それでも学生の頃よりは、神経を逆撫でされるような思いをしない程度には、心に余裕を持てるようになっていた。母の死を忘れまいとした頑なな意志は年を経るごとに風化していった。そのことに負い目を感じることもないほどに、時間が経っていた。このまま、この国に紛れ込んだアラタも、国民と同化していったのであれば、それなりに平凡な日々を送れたかもしれない。しかし、願わぬ再会により、その日々は失われてしまった。




「何でアンタが…ここに居る」
アラタは、自宅の侵入者が強盗ではなく、顔見知りであることよりも、その"顔見知り"との再会に困惑した。

「久しぶりだな。19年ぶりか。随分狭い部屋だな、ここは」
侵入者は、悠々と、ソファーに腰掛け、辺りを見回した。その顔は、パンフレットやテレビで何度も見てきた顔だ。しかし、家を出た時に振り返ったその顔から約二十年の月日を感じさせるほどに老いていた。白髪が混じり、頬は痩け、首は細くなり、昔恐れていたことが嘘のように、弱々しい姿だった。

「不法侵入だぞ…親父」
「お前の契約しているこのマンション。鍵のシステムが甘いな。"普通の鍵"にしていても、指輪での開閉が可能になっている。住む場所は変えた方がいい」
皮と骨になった指につけている金属を、クルクルと回す。その何でもない癖に、この国に再び来た頃の感情が呼び起こされる。

「ああ、アンタの作ったユビワはすげーよ。そうだな。それだけか?昔の息子に自慢するだけのために来たんなら出ていけ」
ふつふつと、湧き上がる。この目の前の男こそ、母の敵。母を死に追いやり、母の死を悼むことすらせず、その死の上にこんな馬鹿げた国を作り上げ、母を辱めた。許してはならない。

「お前もこの国の連中と同じだな。目先の物にしか関心がいかないか」
「…?なにが、」
「"指輪"など、首輪と同じだ。被検体の情報の収集道具に過ぎない。重要なのは、"ガイア"の存在だ」
「あんなのただのスパコンだろ。アンタが一生をかけた馬鹿みたいな代物らしいが、技術的にはそこまで誇れるほどのものじゃないって酷評されてたじゃねえか」
昨今の情報に疎い若者を小馬鹿にするような態度を取られ、最近読んだ情報雑誌を引き合いに出す。

「評価などどうでもいい。"彼女"がこの国で、"神"になれるのなら」
「神?何言ってるんだ?」
この男、いよいよおかしくなってしまったのか。以前はそこまで信仰深い男ではなかった。むしろその類の話は毛嫌いしていたほどだ。やはり二十年の月日は人を変えてしまうのか。

「この国での"指輪信仰"は、"彼女"への崇拝に繋がる。だが、まだ"彼女"も完成ではない」
先の見えぬ会話。金属が、細い枝のような指でくるくる、くるくると、回る。アラタは硬直していた。もう恐れていない、と先に感じたが、それは間違いであった。否、正確には、"別の恐ろしいもの"になっていた。空を見つめ、息子と話しているはずだが、違う誰かと話しているようだ。

「その完成に近づけるには、アラタ。お前が必要だ。息子であるお前のな」
「何を…」
ひたり。汗が滴り落ちる。この男が、今までこんなに真っ直ぐ自分を見つめることがあっただろうか。向き合ったこともなく、他人のように過ごしてきた幼少期。本当の他人になってからこんな対面があるなど、なんとも皮肉なことではないか。同時に、忘れ去った怒りが脳裏に過ぎる。

「何を…何言ってる!今更!二十年も放っておきながら"息子"だと!?都合がいいにも程があるだろ!何様だ!」
気付けば距離は縮まり、男の胸ぐらを掴んでいた。ギリギリと、首を絞めるように。

「お前こそ何を言ってる。私とお前は他人だ。だが、"彼女"とお前は、まだ"息子"だろう?」
グラリ。視界が歪む。手足が痺れ、怒りによる震えは、別のものへと変わる。

「あ、…アンタ…まさか…」
「お前もニュースぐらいは見るだろう。『"彼女"は人間と同じように感情がある』と。そうだ。彼女、ガイアには人格がある。お前の母親だよ」
息が上がる。拳が熱い。男は、切った血を拭い、ギョロリ、と血走った眼を向ける。

「殴って気が済むなら、いくらでもやるといい」
子供の頃、背中の大きさに恐れ戰いていた男を、自身の拳で床に這わせている。

「何で…何でだ…何でそんなことができる…母さんは最期までアンタの心配をしていた!それを…こんな…」
「死の悼み方など、…いや、お前に話しても意味がないな」
ポツリ、と誰に言うでもない言葉を零し、立ち上がる。

「ガイアをマスミの人格として概ね形成はできたが、ガイアは"地母神"だ。"母"であらねばならない。"母"としての人格形成には、息子であるお前の存在が不可欠だ」
「俺が…協力するとでも?」
憤怒は、熱を冷まし、力が入らない。アラタは初めて、"悲しさ"を感じた。この男は、それでも母が愛した男だ。それが最後の境界線だった。それがガラガラと音を立てて崩れる。何故。何故こんな男のために、母が死なねばならなかったのだ、と。ただただ、悲しんだ。

「ああ。何故ならお前は、"一度も母親の死に触れていない"からな」





『持って行かなくていいのか?』
酒を呷ったその量は、許容量を遥かに超え、意識が虚ろになる。そのせいか、叔父夫婦の家を出る直前の会話を、思い出していた。

「マスミさんの写真…1枚くらい持って行ったら?きっと寂しがるわ」
叔母が探しに行こうと玄関に向かうので、すぐに止める。
「いや、いいよ。なくしそうで怖いんだ。生活が落ち着いたら、また取りに来るから」

そう誤魔化して、十年ほど年月が流れてしまった。写真は未だに、手元に1枚もない。叔母についた嘘が、本物であるならば、まだ良い。しかし、それは、無自覚な偽りであった。突然の再会を果たした父は、『一度も死に触れていない』とだけ言い、いくら問うても答えなかった。

「…ないのだな。1枚も。マスミの写真」
それだけ言い残し、アラタは初めて悟った。十年前の嘘は、あれは、母を想ってのことなどではなかった。怖かったのだ。写真をなくしてしまうことではない。母の死を認めることが怖かった。恐れていた。認めることができなかった。この国に戻れば、まだ母がいるのではないか、と。母の影を、追い続けていた。母の死を侮辱するこの国の人間を許すまいとしたが、最も許されぬことをしていたのは、自分自身であった。そのことに気付かせたのは、他でもない、敵であるはずのあの男だった。

誰よりも、母の死に向き合わず、周囲に敵意を剥き出しにし、悼んでいるふりをしていた。アラタにとって、これは母への最大の侮辱であった。償うべき相手など、もう居ない。今までアラタを支えていたのは、敵意そのものだった。しかし、それを向けるべき相手が自分であることを悟り、ぶつけることを躊躇している。こんな無様な姿で、何を許すまいとしていたと?
同類。自分は父と同類、いや、それ以下だ。母の死を知らない国民など、罪でも何でもない。俺は"知っていた"。知っていて、見て見ぬふりをした。二十年間、死んだ母をあの真っ白な病室に置き去りにしていた。

連絡先が記されている液晶画面を見つめる。ある名前を見つける。電話をする?何を話す?すべて?今更?
その相手には、父親がミカミであること、母は既に他界していることは話していた。偽りの友情の代償としての情報だった。アラタの真意である、父への恨みは話していなかった。
こんな自分にも、友情を求めてきてくれた彼を、安い嘘で跳ね返した。今更それが取り繕えるはずがない。自身が悩み倦ね、行き詰まったら、今までの薄い友情を破棄し、今度こそ、と手を差し出す。都合が良すぎるだろう。だが、きっと彼は怒らない。そんなこと、と笑い飛ばしてくれる。分かっている。分かっていて、それに縋ろうとする自分の意地汚さにさらに嫌悪を募らせた。そして、そのまま、電話をかけることもなく、携帯電話の電源を落とした。真っ暗な部屋の中で、拳にドクドクと血が巡るのを感じ、同じ血が巡っているはずのあの男の声と、久方ぶりに思い出す、母の顔を想起させながら、眠りについた。



依頼された仕事の内容は至って単純なものであった。ガイアと特定のシュミレーションテストを行い、"母親"としての人格に即しているか否かを判断し、修正する。大学以来、畑違いの前職のブランクもあったが、技術的な修正は別のチームが担い、アラタは形式的にシュミレーションテストをこなすだけの日々であった。作業としては単純なものであったが、膨大な量のテスト、抜け漏れの許されない作業、その責任からくる精神的負担、さらには、"女"である"母"と会話をするという恥辱にも似た行為が、アラタに重く圧し掛かった。しかし、"彼女"と話せば話すほどに、アラタ自身が垣間見た母の"女"の顔がありありと思い出せる。ここまで作り上げた父の執念も恐ろしかったと同時に、あの時の言葉の意味を理解する。

『死の悼み方など、』
ガイアを"母"へと創り上げること、それが彼の悼み方だったのかもしれない。傍から見れば、非情な悼み方だとしても、彼にはそうするより他なかったのだ。慣例的に葬儀を行い、死者を悼んだところで、それは残された者の気持ちの整理のためのもの。まして、それが全ての人に当てはまるものでもない。葬儀に顔も出さぬ父を恨んだこともあったが、彼なりに母の死を哀しんでいたのかもしれない。ただ、それでも父を恨むことは止められなかった。それすら否定してしまえば、今のアラタは瓦解する。今はただ、"母"に似た何かと会話をしながら、自分なりの死の悼み方を模索しよう。そう思った矢先だった。



「おかえりなさい。アラタ」
玄関を開け、キッチンから声がする。父親の時のように、誰かが侵入したのではないか。いや、それはない。仕事を変えると同時に、前のマンションは引き払い、父の会社の社宅へと引っ越した。このマンションの鍵は任意のパスワードを登録した正規の指輪でしか開閉できない。入れるはずがない。しかし、アラタはそんな可能性すら、頭になかった。ある確信があった。キッチンへと向かう。何も触られていない用具が、いつもと変わらず、そこにあった。ああ、やっぱりだ。
声がするというのに、声の主はいない。しかし、考えは的中している。アラタの予想とは、それは、彼の頭の中であった。

「母さん…」
ある日を境に、アラタは母親の幻聴が聞こえるようになった。しかし、それだけではなかった。眠りにつけば、十年も写真で顔を見ていないはずの母の姿が、生々しく現れ、生前と変わらぬ調子で話しかけてくるのだ。それも、昔自分が望んだ夕飯時の風景ばかり出てくる。そこには、父親も食卓に座り、両親は仲睦まじく、親子間も特に問題のないような、"理想の家族"がそこに在った。だが、その風景から母が消え、次には病室で横たわる。駆け寄ろうとするも、前に進めない。後ろから、父が言うのだ。
お前は昔からそうだ。嫌なことがあると向き合わない。他人を責めて、向き合った気になっている。母さんからも、俺からも、そして友人でさえそうだ。
その言葉は、水になり、溢れ、足から迫り上がってくる。息ができない。深く、深く沈んでゆく。手を伸ばす先には、誰もいなかった。
アラタの罪悪感からくる不安定な精神状態を考えれば、至極当然のことであった。この国に来てからというもの、いや、それよりもずっと前から、母の記憶ごと、消し去ろうとしていた彼の母との記憶は、堰を切ったように、決壊した。押しとどめる方法など、彼が知るはずもなく、共有するための友人は、彼自身が距離を取った。結果、その溢れ出す自責の念から逃れる術などなく、彼の心が壊れるには十分であった。

ただの作業だと思っていたテストでも、時に感情を乗せ、"対話"をするようになっていた。完全に、アラタは、ガイアを母親と認識し始めた。それは母の死と向き合うことを選んだ彼には、ひどく残酷な話であり、物言わぬ者の仕打ちにも思える。"母は死んでいる"と思いたいのに、テスト中には、似た人格と話し、道を歩けば母と似た姿を見、家に帰れば幻聴が聞こえ、夢でまで自分を責める。これは、罰なのかもしれない。散々拒否してきたこの国、父、友人、そして母からの。アラタは心が荒めば荒むほどに、安らいでいる自分がいることが分かった。罪相応の罰を受けている。これで許されるなどと甘いことは考えないが、それでも、母への贖罪くらいにはなるかもしれない。そして、ゆっくりと、けれど確実に、自身の命の終結を、予定した。


それからというもの、アラタは具体的に、"その計画"を進めていた。方法、場所、時間。最終的には、身元不明の死体として、最期を迎える形を理想とした。理由は一つ。母と同じ墓に入ることのないようにとの配慮だった。死後の世界など信じてはいなかったが、あるとするならば、死後も母が笑顔で迎え入れてくれることはないと思案した。ただ死ぬだけならば事は簡単だったかもしれないが、その理想の形にするには、調べれば調べるほどに難しいことがわかった。歯の治療痕や指紋など、手がかりとなる物を残さないような自害の仕方。一番楽な方法は、"死体"自体が見つからないこと。そうとなれば、この国と外国との境目、治安の良くない地域での失踪が良いかもしれない。アラタは、最期の場所を探すため、帰宅時にその地域について調べるために寄り道をするようになった。そして、"運命"の時が来る。



バスに乗車し、不眠や仕事の疲労から来る虚脱感のまま、吊り革に手をかけた。が、次の瞬間、今まで朦朧としていた意識が覚醒する。"指輪"が赤く、点滅しているのだ。本物の"指輪"の着用は従業員の義務であり、以前のようなダミーリングでは有り得ぬ現象。関係者や責任者は、任意での細かい設定が可能であり、"赤い糸結婚"など望まぬアラタは、当然、その設定や条件を厳しくした。故に、その設定を行った本人が一番に驚いていた。光るはずがない、と。しかし、その光は消え失せる。一人だけ、次のバス停で下車したようだ。咄嗟に、自分も下車する、と運転手に伝え、人だかりを押しのけ、ようやく地に降りる。ひとつ前の停車場所からひとつだけの移動だなんて、変な客だ、と運転手は訝しんでいたが、それどころではなかった。辺りを見回すと、下車した一人が先を歩いている。指輪が完全にリンクしないように、光る範囲である直径10メートル以上の距離を保ちながら、後を追った。
相手は、年端も行かぬ、少女であった。高校生、いや、中学生くらいだ。何かの間違いではないか。確かに、バスから下車したのは彼女で間違いない。それに、指輪に導かれる対象者は14歳以上と決まっている。ギリギリ当てはまる年頃だ。少女は、奥へ奥へと進む。ちょうど、アラタが目指す、例の地域の目と鼻の先の区域まで歩く。何の目的があってこんな場所へ来るのか。時間帯から考えて放課後だろう。そんな時間ならば、町中のカフェでも時間は潰せる。制服から見て、相当金のかかりそうな学校に通っているようだし、小遣いに困っている訳でもあるまい。少女は、古びた広場へたどり着き、そこに腰を下ろしてしまった。友達との待ち合わせだろうか。こんな場所で?人通りがないというほどでもないが、それでもお世辞にも治安が良いとはあまり思えない、言ってみれば境界線ギリギリの場所だった。
距離に気を付けながら、アラタもベンチに腰を下ろす。手持ちのノートパソコンを開け、一本の電話をした。それは、ガイアのデータベースの閲覧の権限の要請だった。関係者でも限られたチームでしか見ることができない情報であったが、"ミカミの息子"というのが効いたのだろう。1分と待たずに、権限を得た。

「ツジカゼ マカド…」
自身との指輪のリンク履歴も確認できる。時刻も合う。さらには、現在位置まで把握できた。その他には、住んでいるマンションの住所、通っている学校名、成績、家族構成、指輪での購買履歴、学校へ提出した感想文まで見ることができる。アラタはこの膨大な情報量の多さにショックを覚えると同時に、父がガイアを"神"呼んだことに納得をした。なるほど、これだけの情報量を元にカテゴライズすれば、"赤い糸結婚"の信憑性も増す。駄目押しとして、"指輪信仰"による、『赤い糸結婚で失敗がするはずがない』という周囲からの偏見。父親が、母の死へ向き合うためだけに創り出した代物の大きさを感じた。

再度、少女の情報へと目を通す。
現在14歳。8歳時に、両親が離婚。12歳時に母親が再婚。成績は中の上。友人も多い。クラスで目立つ存在ではないが、非常に友好的な面もある。しかし、指輪制度への不信感を持ち、少々扱いづらい生徒であると担任のコメントにある。学内に比べ、自宅でのバイタルサインの数値が非常に不安定である。思春期の特徴としては珍しいものではないが、不安定さを発散はせず、抑圧する傾向にある。
数行読むだけでも見えてくる、少女の実態。もしや、と思い、現在のバイタルサインを確認する。比較的、安定しているように見える。もしや、彼女は、人を待つでもなく、この場所にいることで、ストレスの発散、あるいは安寧を求めているのではないか。町外れの古びたこの場所で。"指輪から遠ざかるために"?いや、考えすぎだ。きっと指輪がリンクしたから、あることないことを自分で無理に結びつけようとしている。

「何やってるんだ…俺は」
死を決意し、死に場所を探している最中に、リンクした年端も行かない少女に翻弄されている。同族を求めるように、本人の了承も得ず、情報を貪っている。これ以上は、と画面を閉じるが、それでも、少女がバスに乗るまで、その場を動こうとはしなかった。



それからというもの、相変わらず母親の影を追うような生活を繰り返していたが、"計画"についてよりも、少女について考える時間が増えた。少女の生い立ちを辿れば辿るほどに、彼女を哀れんだ。彼女はこの国の"被害者"だ。指輪信仰に取り憑かれた母親の教育に束縛され、去った父親からの愛情を欠き、導かれるまでの時間が無慈悲に刻々と過ぎてゆく。このままでは彼女は。いや、止そう。彼女を"助けたい"だなんてただの自己満足だ。そうすることで、罪滅ぼしなどにならない。それでも、この事実を、彼女の境遇を、"知っている"のは自分だけだ。

『また逃げるのか?』
違う。そうじゃない。そもそも、俺にできることなんてないじゃないか。

『何もできない?本当にそうか?』
ああ。そうだ。何もない。俺の知ったことではない。たかが、カテゴライズに合致しただけの少女のことなど。これ以上、俺にどうしろと言うのだ。

『あなたは何も悪くないわ。アラタ』
「じゃあ、…なんで死のうとした時に彼女に会わせたんだ…母さん…。死んで逃げることすら許されないのか…」
『母さんの分まで生きて欲しいの』
「生きてどうする…あんたを置き去りにして、…何もできない。これ以上、俺には何も…」

もはや、アラタは今、ガイアと話しているのか、頭の中の母親と話しているのか、夢を見ているのか、それさえも定かではなかった。ただただ、道をなくし、立ちすくんでいる。何もかもから逃げるように、街を離れた。


川だ。大きな。深い。ここから落ちれば、死ねるかもしれない。柵に手をかける。潮の匂い。海に繋がっているのか。あの夢は、最期の場所の暗示だったのだ。きっとそうだ。きっとうまくいく。これで何もかも。

「おにーさん。ここは止めた方がいい」
横から声が聞こえる。女の声だ。母以外の声。これもまだ夢なのだろうか。

「この川、下流になると一旦すっごく細くなるんだ。そこで詰まる」
なんだ。そんなこと。関係ない。もう、俺には何も関係ない。

「そこで詰まった死体は身ぐるみ剥がされて、状態が良ければ死んでても"使われる"」
ああ。それならちょうど、死体が見つからずに済む。

「アタシから言わせれば、"コッチ側"のお兄さんが、なんでそんなことすんのか分かんないね」
コッチ?何を言ってる。俺の居場所など、この国にも、この世界にも、どこにもない。

「ある女の子がね、」
女は昔々、と絵本でも読むように話し始める。だが、その目線の先には絵本などなく、赤い月を見上げている。

女の子は、物心ついた頃から、違和感を感じていました。その違和感が何か分かりませんでした。でも、ある日、自分の正体が分かりました。その子は、虎でした。しかし、周りはみんな兎でした。友人、生みの親でさえ、兎でした。ああ、そのせいか。女の子、虎は、兎さんを食べてしまいました。

「その子はね、"アタシ"は虎だった。だから、虎のたくさんいる"この場所"に来た。アタシはお兄さんも、虎だと思うよ」
違う。俺は、死んだ母親を忘れようとして、友人にも酷い仕打ちをして、恨んでいたはずの父親と同類だったんだ。それ以下だったんだ。そして俺はまた、親父や俺のせいで不幸になった少女すら救えずにいる。俺の正体なんてそんなものだ。

「そんなの簡単だ!"死にかけの兎"がいるなら、食べちゃいなよ!知り合い紹介してやるよ!」
食べる?いや、死ぬのは俺だ。俺が死んで、それで、それから。

その後は?

女は自分を"虎"だと言い、アラタも同じだと告げた。女は、アラタのことを知らない。どんな経緯で国を追われ、行き着いた先がこの川なのかも知らない。だが、女はピン、と感じたのだ。彼が自分と同類だ、と。本当のところ、アラタが"虎"であるかは定かではない。ただ、アラタの死を防いだという意味では幸運なことに、女の言葉は、彼を救った。しかし、少女にとっては、不幸なことに、女の言葉は、彼を救ってしまった。"死にかけの兎"という単語は、指輪に引きづられ、たどり着く先の不幸を連想させてしまったのだ。

彼女はどうなる。俺が死んでも彼女は変わらず、不幸の道を歩み続ける。可哀想に。俺が何もしなかったばかりに。

"死にかけの兎"は、母であり、少女であった。

どうせ死ぬのなら、気の毒なあの少女も、"食べて"しまえばいい。そうか。それが唯一、今の俺にできることか。なんだ。簡単なことじゃないか。




パタン。窓を閉めたマカドは、アラタの話が終わるまで、季節の変わり目ということを忘れていたほどに、他のことを考えることができなかった。男、アラタの29年生きてきた人生。内容は、夢か現か幻か、彼の都合の良い作り話だったのかもしれないと思うほどに、ところどころすっぽりと抜け落ちていた。正直な所、マカドにとって、それはどちらでも構わなかった。重要なことは、彼が何を思い、どんな風に感じていたか。

眠りに落ちる前に、ポツリ、と呟いた。
「君は…母親を捨てるべきだ…そうすれば、」

生まれてから十四年間、母に捨てられまいと、それだけを考えてきた。これからもそのつもりだった。しかし、そんなマカドに彼は唯一の"神"を捨てろと言う。そんなことが出来るはずもなかった。

『でも君はきっと、そんなこと、言わないんだろうな』
現に彼もそれは出来ないと言っていた。分かっているはずだ。こんなことは無意味だと。捨てて、そこからどうすればいいのか。線は途絶え、立ち止まってしまう。あんなにも嫌ってたはずの、重荷に感じていたはずの線も、なくなってしまえば、羽ばたき方の知らない雛鳥のように、飛び立つこともなく、地上に落ちてしまう。彼に選択を投げられたその時から、自分には"母"以外何もないことを痛感してしまった。

指輪に導かれた彼は、驚くほどに自分と似た人生を歩んでいた。心にある大きな"穴"が埋まらず、この国で孤立している。だからこそ、彼とは歩めない。欠けた者同士、その穴を埋めることは、決して出来ない。彼は、虚像の母親と、自身を見てくれない父親への憎しみに苛まれ、生きていくしかないのだ。都合よく、さも自分を救うためだと彼は言うが、彼が求めているのは、妻としての支えではなく、似た者同士による慰めだ。そんなことしかない頭を思い切り、グチャグチャにしてやりたい気持ちと擬似的な母親のようにあやしたい気持ちが一緒くたに、押し寄せる。唐突に、涙が頬を濡らした。こぼれ落ちたそれは、何を意味するのか。マカドには、まだ理解できなかった。決して同情などではなく、共感した訳でもなかった。マカドは、わざとらしく、相反する二択のうち、そっと後者を選択した。





「あの式場、チャペルが隣にあったし、雰囲気すごい良かったよね。…ねえ聞いてる?」
「…へ?」
「もー!準備くらい手伝ってよ!"私達"の式なんだから!」
ふくれっ面をしてみせる彼女をなだめ、結婚式を行う会場のパンフレットの山を取り上げ、関心のある振りをした。先日、親友の結婚式に参加して以来、すっかり彼女も感化されてしまったのだ。勿論自分も、彼女と結婚をするつもりではいたが、いざ具体的な話が出てしまうと、尻込みしてしまう。それも理由の一つであったが、自分の中での違和感が拭えないのだ。彼女の結婚の意欲を駆り立てた、"親友の結婚式"が。正しくは、"親友の妻"になった、ある少女のことだ。

彼女とは数回会話をしたが、年齢からは考えられないほどに、自分の感情をひた隠しにし、周囲に溶け込むことが異様にうまかった。自分を押し殺しているのだ。そんな彼女に、お節介だとは思いながらも、『赤い糸結婚』が嫌であれば、自分から親友に伝える、と申し出た。自分たちも赤い糸結婚ではないため、その方が当人の納得がいくのでは、と思った故の申し出であった。しかし、彼女はいつもの歳相応の笑顔で、断った。

自分の人生を大きく左右する伴侶を、彼女の納得のいかない形で決まって良いのだろうか。釈然としないまま、結婚式に出席すると、少女の人の顔色をうかがう癖といい、『赤い糸結婚』にこだわる理由が一目瞭然であった。原因は彼女の母親だ。披露宴の挨拶回りで言葉を交わしただけで理解できた。こだわっていたのは、少女ではなく、母親の方であった。ますます気に入らず、そして違和感を強く感じた。それは少女であった。あんなにも、不自然なほどに14歳を演じていた彼女が、誓いの言葉の後、初めて、笑顔を見せたのだ。心から、祝福を受けた、そんな笑顔だった。演技ではない。それだけは断言できるほどに、麗らかな表情だった。

愛する者と結ばれる瞬間ならば、当然そんな顔になるだろう。だが、少女の場合、そうではないはずだ。何故。どうして。

式場選びに集中していない、と再度怒るキノを尻目に、タカは先日撮った"親友の結婚式"の写真を、疑義を抱きながら見つめた。






「…うん、うん分かってるよ。お母さん。大丈夫よ。気を付けるから。じゃあね」
カタン。受話器を置いたその左手には、時々、思い出したように赤く光る指輪が在った。導かれた男女の指には、インフラストラクチャーとしての役割だけでなく、"夫婦の愛"を感じるための機能も備えていた。導かれた伴侶に対し、強い愛情を感じると、赤く光るのだと言う。一説によると、企業側のパフォーマンスではないか、と噂されているが、真相は不明であった。しかし、愛とは形として見えにくいものだ。だからこそ、多くの夫婦はその機能に非常に満足していた。先ほどまで会話をしていた相手も、そのうちの一人である。

「…馬鹿な女」
左手を広げ、光を反射する金属を睨んだ。

何気なく机の引き出しを開け、ある物を見つける。何年前だろう。懐かしさから、昔のようにそれを着けてみたが、やはりサイズが少し小さい。中学生の時の代物だ、サイズが合わなくて当然か、とわずかに落胆する。左手の指輪、そして、以前着けていた右手の黒い指輪。過去に同時に光ったことがある。"黒の指輪"は、ヒット商品になると思われていたが、その後、正式に販売が開始されることはなかった。企業側の理由としては、精度に問題がある、とのことだったが、実際には『殺意』という感情を明確にすることで起こり得る問題に対処しきれなくなるという危惧からである。

可笑しなことだ。偽の愛情は問題にはならず、"殺意"は問題になる。

「…同じことなのに。…フフッ」
この黒の指輪問題は、様々な説が取り沙汰されているが、本当の理由は、"精度が良すぎた"のではないか、と自分なりに見当をつけていた。日常に潜む"殺意"。これが露呈してしまえば、色々と面白くないのだろう。この国は、指輪に取り憑かれている。偽の幸福を享受している国民に、気付かせてはならないのだ。一体、その幸福が何の上に成り立ち、何に踊らされているか。

先ほど会話をしていた"馬鹿な女"の人生も、ある意味では一つの幸福なのかもしれない。指輪の導きに従い、何の疑いもせず、幸福たり得ていると言い聞かせ、悦に入る。本人の与り知らぬところで、指輪の被害者であるなら、それも良かっただろう。ただ一つ、この女の失敗は、実の娘も"被害者"にしてしまったことだ。故に、娘は彼に"選ばれて"しまった。
その罪に気付きもせず、自分と同じように、娘も幸福になったと今もなお、胸を躍らせている。

そして、その罪を、夫は理解している。理解した上で、母親との決別を促した。そんな彼は、いや、彼こそこの国の、指輪の"第一の被害者"であった。指輪の頭脳である、"ガイア"の第一人者を父に持ち、その"ガイア"のモデルとなり、死別した母を持つ男。そんな彼を哀れみ、同じ被害者である者同士、痛みを分かち合いたい、と彼の妻になることを選び、彼は、馬鹿な母親よりも自分を選んだと思い込んでいる。

かつての少女は、母を欺き、男を利用し、自らをも騙した。男に復讐をしたかった。彼の父親が作り出した偶像の母親を崇拝するこの国に留まることで。偽りの祝福を受け続けることで。
愚かな母を嘲り、自身を守り、男を傷付けたかった。

表向きは、指輪に導かれた夫婦であり、夫は、自身と同様に指輪を憎む妻を娶ったと思っているが、本当は、恨むべき夫の苦しむ姿を見るためだけに妻になったのだった。
自分の世界を壊した夫への憎しみこそあったが、哀れな夫を目の前にすると、息子のように愛おしいと感じてしまう。彼の告白を聞いたときに感じたあの感情、あの涙の理由はこれだったのだ。

「憎らしくて、可哀想で、愚かで、…そして愛おしい人」

物言わぬサイズの合わない指輪を着けた右手で、別の鼓動を子宮に感じながら、光るはずのない指輪が、あの時と同じように、同時にゆっくりと光っていることは、彼女しか知らない。




不思議な国が在った。そこでは、指輪の導きに身を委ねることが、幸福であった。そこにはなんの苦悩もなく、ただ、待っていれば、出会えるのだ。最も伴侶に近い者と。そうして出会った男女たちは、何故か末永く結ばれ、指輪の導きに感謝するようになり、後世に語り継ぐ。幸福たり得た人生を。

『マカドもきっと、"指輪"で相手が見つかれば、私の気持ちが分かってくれるわ』

完結です。閲覧ありがとうございました。

後書き