幸福の輪 ―黒編―


幸福の輪 ...01

幸福の輪 ―黒編―

ちゃぷん。水音が跳ねた。きっと何か小石でも入ったに違いない。背後から聞こえたその音について、特に何も考えずに、少女は持っていた小説の次の頁を捲った。
背後で何故、水音がするかと言うと、少女の背後には、噴水があったからだ。噴水、と言っても名ばかりで、今はただの水を入れているだけの入れ物に過ぎない。一昔前は、時間になると水しぶきをあげ、通りすがりの者の心を和ませていたらしいが、今では見る影もなく、濁りきった水が無表情に、時々、先程のような小石による波紋を作るばかりである。
ああ、またこの手の話か。まだ最後の頁を読んだ訳ではなかったが、少女の小さな手はパタンと音をたてながら、本を閉じた。結末を見られることのない、謂わば、役割を果たしていないその本は、何かもの言いたげに、緑色のプリーツスカートの上で不貞腐れていた。そんな目で見るな。鬱陶しい。少女はお返しにその鋭い目つきで睨み返した。ふと、その過程で別のものを捉える。その眼光の先のものを、今度は少女が不貞腐れた顔で見つめた。本来、"それ"は、祝福を受けた者が手にする物。決して、恨めしい気持ちで見つめる物ではない筈だった。きらり、と"それ"は、余裕の表情で優雅に返事をした。その余裕さが気に食わず、少女は睨めっこを止めることにした。
土埃で文字盤が薄汚れ、時刻を指すべき針は、動くことがない。しまった、あの大時計は動いていないのだった。つい見てしまう。この場所にも慣れたと思ったが、どうやらまだまだ自分は新参者らしい。母親が選んだ携帯電話の時刻を見ると、18時と表記されている。少女は待っていた。

噴水も大時計も動いていない、こんな場所で少女は何を待っているのかというと、それは物でも人でもなく、ただ日が暮れるのを待っていたのだった。その場所で何も待っておらず、暇を潰すためだけに、読みたくもない小説を広げていたのか、と言うと少し違う。実のところ、"逃げたかった"のだ。あの街から、あの国から。

少女の国はとても小さな小さな国であった。独立してからの歴史は浅く、国としてはまだまだ若い。だが、元々先進国から独立したため、国民の生活水準は高く、また、技術もあった。歴史が浅いながらも、目覚しい発展を遂げ、近年では、世界から注目を浴びてさえいる。だが、彼女にとって、その"技術"というものが曲者であった。

『運命の赤い糸』をご存知だろうか。寓話から派生し、運命的な出会いを象徴する表現として浸透している話である。結ばれるべき男女のそれぞれの小指には、赤い糸があり、それは一本で繋がっている。国や文化によっては、結ばれる場所に差異はあるものの、ポピュラーな話の一つだろう。ちょうど20年前、この寓話を実現してしまった企業があった。と言っても、本当に一人一人の男女の小指に赤い糸を結んだ訳ではない。それは"指輪"であった。その指輪は、"運命の人"が近くにいると、赤く光るというのだ。そんな世迷言を信じる人など居はしないだろう、と予想できる。しかし、その商品はあるものが付随したため、信憑性が増し、当時モニター募集を行ったところ、応募が殺到。ニュースになったほどだ。
そのあるものとは、『ガイア』と呼ばれるスーパーコンピュータの存在であった。地母神をモデルにした名前のそのスーパーコンピュータの開発チームのチーフを担ったのが、"指輪"を売り出した企業に所属するミカミという研究者だった。ミカミは次のように発表した。
「『ガイア』は情報処理速度もさる事ながら、なんと言っても特徴的なことは、"彼女"は人間と同じように感情があり、情緒が理解できるのだ」

当時既に、人間の感情のメカニズムを分析し、心情を読み取って対話ができる技術もあったため、コンピュータの進歩としては、然程目新しいものでもなかった。『人間と同じように感情がある』などと、ただの宣伝文句だろう、と。
だが、ミカミは『ガイア』を使い、"運命の人"を見つけ出すプログラムを開発したと続ける。概要はこうだ。

まず、"指輪"が被験者の体調・思考・感情の起伏のリズムなど様々な要素を数値化し、採取する。そのデータが定期的に『ガイア』へ届き、データベースに書き込まれる。そして、書き込まれたデータを分析・分類を行い、最も適した男女を割り出し、その二人がある一定距離内にいる場合のみ、赤い光を放つ。

話だけ聞けば、なるほど、適した男女の組み合わせを勝手に知らせてくれる指輪とでも思っていれば、面白いかもしれない。
最初はその程度の興味本位であった民衆も、噂が噂を呼び、"指輪ブーム"を引き起こした。さらにミカミは、こう呼びかけた。

「この"指輪"もプログラムも、まだまだ未完成だ。精度も甘い。しかし、どうだろう。これが"幼少期から指輪を着用していた"としたら。結婚適齢期の人間が2,3ヶ月着用して得られるデータ採取量と比べて考えていただきたい。勿論、前者の方が、より精度も正確性も上がる」

この言葉を口火に、普及率が急上昇し、年齢問わず、家族全員が着用することが当たり前になった。こうして、この国では、政略結婚、恋愛結婚が主だった形態が、独立後、まるで新しい時代を築く象徴でもあるかのように、"赤い糸結婚"が主流になったのだ。
さらに、国民の生活水準は高かったが、独立時、既に少子高齢化が進みつつあったこの国は、現状を打破すべく、"赤い糸結婚"に関する法律を次々と制定した。"指輪"によって導かれ、結ばれた男女には、多くの場面で優遇され、手当等もついたため、この"指輪ブーム"はただのブームでは終わらず、新しい文化として根付いたのである。そして現在では、"指輪"は様々なものに応用され、携帯電話に次ぐ、新たなインフラストラクチャーとして活躍しており、他国からはこう呼ばれるようになった。

『指輪の国』


この話だけ聞けば、独立したての若い国が、まったく新しい文化を作り、確立している。なんて素晴らしい話なんだ、と感嘆を漏らすだろう。しかし、時の止まった錆び切ったこの場所で、ただただ現実逃避をする少女にとっては、この上なく、不幸なことであった。

少女は14年間生きてきて、この"指輪制度"が作り出した被害者を二人知っている。一人は彼女の母親だった。母親が結婚した頃は、ちょうど例の企業が"指輪"を売り出し、大ヒット商品となった時期と重なる。であれば、少女は、"赤い糸結婚"によって生まれたのか。否、違う。考えてみて欲しい。当時、"恋愛結婚"が主流だったこの国の中年層、つまり少女の母親の両親の世代は、ただでさえ新しい技術に消極的な考えを持っていた。家と家の政略結婚から、当人たちの自由に相手を選べる恋愛結婚を勝ち取った歴史もきちんと学んでいる年代だ。「選ぶ自由があるのに、どうしてそれを放棄し、こんなちんけな金属に、一生を左右する伴侶選びを任せるというのだ」と。結果、母親は至って"普通"に、夫を選び、結婚。そして少女が生まれた。順風満帆に思えたその人生を狂わせたのは、他でもない"指輪"であった。少女が物心つく頃から、父親と母親の不和は何度も見ていた。小さなことから大きなことまで。母親は、酒をあおりながら、こう言った。
「私も"指輪"さえしていれば、こんなことにはならなかった」
少女が8歳の頃だっただろうか。母親に手を引かれ、振り返ると父親はもう、娘を見ることもなかった。
4年後、少女が中学生になる春に、母親は再婚した。今度は、いや、今度こそ、"赤い糸結婚"である。年の差はほとんどなく、例の会社の子会社に勤めている、真面目で謙虚な男だった。母親は本当に、幸せそうだった。少女は母親の嬉しそうな顔を見ると、自分の素直な気持ちを伝えることができなかった。ただ、一言、おめでとう、と伝えた。本当の父親の顔はもう、思い出せない。

それからというもの、少女の小さな胸にぽっかりと穴が空いて、物事が風のようにするりと通り抜けていくような感覚で日々を過ごしていた。ただ、怒りとも取れぬ曖昧で中途半端な感情が溢れ、どんなことにでも苛つくようになった。
早く"相手"を見つけて、授業や宿題から逃れたい、とばかり口にするクラスメイト。街に新しくオープンしたカフェに行かないか。あそこで"相手"を見つけたという人が続出しているんだ。"赤い糸結婚"を題材にしたこの恋愛小説が面白い。"指輪"がゆびわがユビワが。
家に帰れば、まだ"相手"が見つからないのか、今度の休みに少し遠くまで出かけないか。自分を幸せにしてくれた"指輪"で、今度は貴女にも幸せになってほしいの、と"女"の顔をしながら話す母親。まあまあ、と苦笑いをしながら諌める義父親。家族の揃うリビングでは食事だけ済ませ、宿題があるから、と足早に自分の部屋へ移動する。少女が二人を避けているのは明らかであり、難しい年頃だから、と義父親は母親を慰めた。
「でも、マカドもきっと、"指輪"で相手が見つかれば、私の気持ちが分かってくれるわ」
偶然その言葉を聞いてしまった少女は、足音をたてないように、ベッドに潜り込んだ。そして、息を殺して、泣いた。絶対に、理解できない。してやるものか、と。


マカドはもう一度、その小さな左手の小指に嵌めてある指輪を見つめた。
「もっと前に生まれていれば良かった」
もっと前、それは"恋愛結婚"が主流だった一昔前を指す。そうすれば、普通に恋人ができ、何度かその相手が代わり、20代後半頃にはその相手と結婚をしていただろう。

「でもさー、それって相手自分で選ぶんだよね?なんか不安じゃない?」
"普通"の結婚がしたい、と伝えた時の友人の言葉を思い出す。"赤い糸結婚"で生まれた子供たちの価値観として、『ガイア』の絶対性・確実性が安心感を与えると言うのだ。一生の間、自分の足で、歩み、出会える人の数は限られている。その中で、"結婚相手として良いかもしれない"という気持ちのみで相手を選び、伴侶にするのは、リスクが多い。対して、『ガイア』という知能の下で管理されたデータベースの中から最も適している相手を選んで貰えるというのは、手間もリスクも減る。様々な法も適応されるし、何より相性が良いのだから、何を迷うことがあるのか、と。
だが、マカドにはその環境こそが、飼い慣らされたモルモットのような感覚であり、"普通"とは到底思えなかったのだ。機械に選んで貰って、それで果たして幸せなのだろうか。伴侶を探すという行為を放棄しているだけではないか。もし、"赤い糸結婚"さえなければ、"指輪のせいになんてしなかった"のではないか。

思考の坩堝に入りかけたマカドを覚醒させたのは、携帯電話の充電が切れるアラーム音であった。しまった、これでは時間が分からないではないか。辺りを見渡せば、夕日はどっぷりと沈み、今にも切れそうな古ぼけた街灯が点き始めていた。思わず、右手の小指にある指輪を触る。通常、国民の大多数が着用している指輪は左手の小指にあるが、マカドには右手の小指にもあった。これは先日、義父親に貰ったものである。あるコネから、手に入れ、まだ商品化されていないものだが、その精度は高く、次のヒット商品になる、と噂されているものである。
これは、左手の"赤い糸"とは、正反対の代物だ。"黒い糸"とでも言えば良いのだろうか。事実、右手の指輪は黒く、光る時はまるで黒い光が放たれているように見えるらしい。近年、社会問題として大きく取り上げられている、少年少女に対する犯罪の増加に伴い、15歳未満を対象に発案された防犯用の商品である。"赤い糸"を導く左手の指輪は、両者の相性をカテゴライズするが、"黒い糸"を導く右手の指輪は、強い殺意・憎悪など、犯罪の引き金と成りうる感情の高い人物がある一定の距離に居た場合、光を発するのだという。俄かに信じがたく、マカドもまた、信じてなどいなかった。しかし、先ほどまで居た、いや、今まさに離れようとしている地域は"良くない"と噂されており、こんな時間になってしまっては、心細くて仕方がない。何もないよりは安心できるというものだ。

そんなことを考えながら、バス停へ向かう。あの角を曲がれば、バス停が見える。突然、街灯の影である壁がゆらり、と動いたような気がした。ぎょっ、とし、立ち止まる。野良猫か野良犬だろうか。いや、それよりも高い。人だ。
人が壁にもたれ掛かっていたのだ。何をしているのだろう。その影の人物の先に行けば、大通りだ。灯りもある。帰宅時の人もいる。
早く行ってしまおう。目を合わせないように、と下を向きながら、進む。しかし、影の人物も進む。こちら側に。左側から来るので、何気なく、反対側へと移動しながら、足早に大通りへ向かう。鼓動が高鳴り、指先までジンジンと伝わる。血液の循環を全身で感じ、その急がせるようなリズムが、逆に時間を遅くする。すぐ。すぐそこだ。勘違いかもしれない。気のせいかもしれない。いや、走ったっていい。走ればすぐに、バス停に着く。帰って、いつもの日常に戻らなくてはならない。早く。早く。
勢いづいたマカドの歩みよりも早く、影の人物は目の前に立った。反射的に止まってしまい、横に避けようとしても、足が動かない。この人物は、もしかしたら何か尋ねたいのかもしれない。恐る恐る、顔を上げる。

「…あの、」
何か用ですか、と言ったつもりだった。しかし、言葉は最後の方は掠れて、音にすらならない。力強く、指定鞄を握り締める。手が熱い。
その時、マカドは極限まで緊張状態にあり、周囲の音も、匂いも、景色も、何もかもが頭に入っていなかった。入ってきた情報は三つ。影の人物は、男で、フードを深くかぶっていて、顔がよく見えない。そして、ニヤリ、と笑った時に見えた白い歯。
それ以上の情報を得ることもなく、踵を返し、走ろうとした。しかし、後退る途中、何かにぶつかり、短い悲鳴を上げる。次に、肩に激痛が走り、口に何かが覆われる。何も理解ができぬまま、目の前の男の笑う顔しか見れず、横腹に高熱の針で抉られたような感覚を最後に、マカドは意識を失っていた。


声がする。
二人の、男の声だ。声がくぐもって、よく聞こえない。
重たい瞼をやっとのことでこじ開けると、視界は横向きになっていた。身動ぎした瞬間、横腹に激痛が走った。あまりの痛さに、身を縮めると、うまく縮まらない。いや違う。手首だ。手首が、固定されているのだ。
錆びかけた手錠。見たこともない部屋。状況を把握した頃には、バス停に向かう途中の記憶が蘇っていた。
逃げなければ。幸い、男たちは部屋の向こうで、ドアは閉まっている。
腹の痛さを庇いながら、上体を起こそうとするが、うまくいかない。手錠はテーブルの脚に通されている。テーブルを押してみるが、動かない。力もうまく入らない。手錠を壊すように、脚を利用してみるが、ガチャガチャと虚しい音をたてるばかりである。
上体さえ起こせず、テーブルの脚にしがみつくような格好のまま、辺りを見回した。何か、なんでもいい。使える物は何か…。
しかし、無慈悲にも床にはあると言えば、せいぜい埃かカビくらいのものだった。
そうだ、窓。
首を無理やり、上に向けてみる。小さな天窓が一つしかない。
無理だ。高すぎる。そもそも、上体も起こせやしないのに、届く訳がない。

身体の震えが止まらない。ふと、右手の指輪が目に入る。
『少年少女に対する犯罪』
その言葉だけが頭を占める。アナウンサーが読み上げるニュースは、無機質で、作られた原稿を読み上げているだけに見えた。でも、違う。アレには、事実がある。被害者がいる。私と大差のない年の子供。

今度は、私の番だ。

バタン。ドアの開く音に、全身が跳ねる。音があまりに大きかったため、この部屋のドアが開いたと錯覚したが、隣の部屋のようだった。
声が増えた。
二人はこの人物を待っていたのだろうか。何のために。
椅子を引きずる音が二つ。先に居た男たちが立ち上がったらしい。
何か話している。聞き取れない。

マカドは先程までどうにか脱出しようと試みていたが、部屋の向こうの男たちの会話に耳を傾けることしかできなくなってしまっていた。

ガタッ。予告なしに、扉が開く。暗くて、顔がよく見えない。扉を開いたのは先ほど到着した男のようだ。奥に二人見える。片方の男は、あのフードの男だ。

「よし、荷物の確認は済んだ。はい」
何か手渡し、奥の二人は、二言ほど告げると、外へ出てしまった。

荷物。ニモツ。
手足が痺れてくる。息も上がり、視界が回りかけた。その時、すう、と痺れが薄れてきた。手首から。見ると、手錠が片方外れている。

早く。
立て、立って逃げ、

突風と、何かが破裂したような音が鳴り響き、重い椅子が目の前を陣取った。
恐る恐る見上げると、男は冷たい瞳で見下ろしている。ドアが、閉められてしまった。まるでもう二度と開かないと、宣言されたようだった。足元から力が抜けてゆく。

「妙なこと考えるなよ。じゃなきゃ、また手錠つける羽目になるぞ」

一度で良いはずの頷きを、止まらぬ震えのせいで、何度も小さく繰り返してしまう。カチカチと奥歯が当たり、口を強く結んでも収まらず、手で強く強く、スカートを握った。

「あれ?」
威圧的な声ではなかった。まるで友達にでも話しているような、そんな声色に変わった。その声に油断し、あっという間に手を引かれる。

「これってまだ販売してないはずなんだけどなー」
何か、言葉を発しなければ。このままではダメだ。

「何…が、」
声が掠れる。喉に何か詰まっているようだ。唾さえも飲み込めない。

「え?ああ、これこれ。これのこと。それにしても、」
男はマカドの右手を、右手の小指を掴んでみせた。煌々と輝く、黒い指輪を。

「割と性能いいみたいだね」
天窓から差し込む月明かりが、瞳と指輪を照らす。指輪が、黒の糸が導いた男が、目の前にいる。

自分の声ではないような、獣じみた悲鳴が木霊し、男の手から逃れようと、力の入らぬ足を引きずって、テーブルの奥に入る。

「あはははは。傷つくな。そんな反応されると」
椅子から降り、同じ目線になる。より一層、離れようと奥へ奥へと進む。触られたら、身を噛み砕かれてしまうような心地がする。だから身を精一杯小さくするが、テーブルはそれほど大きくはない。手を伸ばされれば、触れてしまうだろう。

「おーい。出てきてって」
長い腕が手探りを繰り返す。いつでも引きずり出せるだろうに、男はそうしなかった。す、と立ち上がり、テーブルの上から、コンコンと上品にノックする。

「この部屋ホコリっぽいし、あんまり奥行かない方がいいよ?」
決して返事をするまい、と手をピタリと口にあてがう。

やがて、ノック音は止み、手を離す。
しかし、次に地響きのような揺れと、爆音が耳を劈いた。


「出て来いって言ってんだろクソガキが!手間かけさせてんじゃねえよ!」

怒号と共に、テーブルが揺れる。熱のない声、友好的な声、雷のような咆哮。男は一人なはずなのに、まるで何人もいるようだった。怖い、聞きたくない。普通じゃない。
どんなに耳を塞いでも、身を小さくしても、音は鳴り止まなかった。水膜がぼろぼろと溢れ出て、息が苦しい。
ついには、自分でも何故か理由が定かではなかったが、何度も何度も、母親を呼んでいた。

すると、ピタリ、と音が止む。

小さな、震えるような高い笑い声が徐々に大きくなる。その笑いは破裂し、男は床をギシギシと踏み抜いてしまいそうな勢いで、踵を打ち付けた。一息つくと、小さな、しかし、シンとした部屋に、声が通った。

「そうか。…ハハ、本当に面白いね。マカドちゃん」
聞き間違いでは、なかった。

今度は、ハッキリと、声が出た。
「…あなたは、誰?」
「やっと、俺に興味持ってくれたね」

また、同じ目線になる。表情は見えない。
「初めまして、俺はアラタ」

代わりに見えたものは、赤い、光だった。
「君の伴侶だ。よろしくね、マカドちゃん」

視界のピントが合わない。嘘だ。一度だって、この指輪は、光ったことなどない。ましてやこんな、

「あ……ああ…」
両の手の指輪はせわしなく、まるで警報のように、点滅を繰り返していた。




不思議な国が在った。そこでは、指輪の導きに身を委ねることが、幸福であった。そこにはなんの苦悩もなく、ただ、待っていれば、出会えるのだ。最も伴侶に近い者と。そうして出会った男女たちは、何故か末永く結ばれ、指輪の導きに感謝するようになり、後世に語り継ぐ。幸福たり得た人生を。

『マカドもきっと、"指輪"で相手が見つかれば、私の気持ちが分かってくれるわ』

短編らしい短編は初めてでしたが、いかがでしたでしょうか。
『幸福の輪 ―黒編―』というタイトルからも分かるように、続編予定してます(短編じゃないじゃないかとかはなしで)。

続編は、男、アラタ視点を書こうと思っています。お楽しみに

ここまで読んでくださってありがとうございました。

後書き