濁りに染まぬ蓮


セイクリッドセブン ...02

濁りに染まぬ蓮

穢れた泥を啜り、
育つ蓮は美しい花を咲かせる

それを人は
「強く、逞しい」
と言うけれども




ユリアは元々細身であるその体を、肩ごと狭くしながら歩いていた。"そう"していないと、目立ってしまうから。目立って良いことはない。目付きが悪い、という理由だけで看守に殴られる者もいた。女性と言えど、容赦などない。自分のいる場所を考えれば当然のことだった。

『ヒルトン刑務所』国内でも屈指の刑務所である。というのも、設備を指してのことではなかった。飛び抜けているのは、刑務官の数でも、囚人の数でもない。
ある人物であった。その人物の経歴は公にされてはいないが、つけられたあだ名が『水の華』。"華"というからには、それ相応の外見をしている。実際に見かけたが(勿論影から見たのだ)、成る程、その名に相応しい。そして、"水"がつくのは髪色を指してだが、それは正確には一般的な見解であった。本当の意味は、その"冷めた色"を揶揄したものだった。冷酷、残酷、非道。全てを含有している。そして、二つの言葉が合わさった時、最大の意味を発揮する。



「…?」
人だかりに足止めを食らい、原因はなんだ、と低い背丈を精一杯伸ばした。どうやら広間で何かあったようだ。

「やだなぁ…」

周囲は間抜けにも、野次馬と化している。こんな時は、退散した方がいい。"経験"から、ユリアは早々に踵を返した。だが、溢れ返った人間が、叫びながら自分の帰路を防ぐ。牢獄では、男女別室ではあるが、混合である広間。並みの男共と身体を張っても勝てる程の筋肉はなく、遇えなく廊下の片隅にふっ飛ばされる。
ああ、もっと早くにここを去れば良かった。尻もちをついた辺りを撫で、涙目で数秒前の自分を恨む。
しかし、そのお蔭で、ユリアはヒルトン刑務所は三本指に入ると言われる"原因"と、数センチまで近付けた。

「退け!!」
「ひっ」

自分に吐かれた言葉ではないのを知ってはいるが、あまりの迫力に、既に竦んでいる脚を更に引っ込める。
まさか、こんなタイミングで『水の華』と接触(自分にはこれが精一杯の距離だった)するなんて。しかも、"由来"である、紅眼、赤毛までお目にかかれるとは。

彼女は、特別な能力を有する、ニューエイジである依然に、二重人格であった。
水を連想させる際の彼女とは、冷酷な性格は変わらないが、鮮血を思わせるもう一人の彼女はより猟奇的になる。髪色などが変化する理由は、能力のせいだと人は言うが、本当のところは分からない。ユリアはその眼で見るまでは、そんな人種がいるのか、と信じられなかったが、どうやら噂は本物らしかった。

「でも…なんで…」

"もう一人の彼女"になっていたのだろうか。広間で何か起きたのか。普段、ユリアは騒ぎ自体が苦手で、常に"触らぬ神に"精神を貫いていた。だが、今はそんなことを言っている場合ではなかった。何故なら、ある恐ろしいことを思い出してしまったからだ。
まさか、と寒気が背中を猛ダッシュした。そうだ、そういえば、"「食事をする」と言っていた"。しかも、記憶が正しければ、今日のメニューのサラダには、苦手な"アレ"が入っていた、ような。
食堂と広間は、そう遠くはない。
思いつくと、思考は止まらず。食事の時間にしては、人数が少なかった。同時刻に、"広間で何かあった"のでは。そして、その事件の張本人はもしや、自分の"上司"では。
頭痛がするとか、そんなことを言っている場合ではない。人混みの間を縫って、広間に向かう。

「やあ、愛しのユリア君!」
「なっ…ななななんっ…」

広間で、演説でもしていたのか、というほどの人だかりの中心人物が、自分を呼ぶ。

「む?なんだね?…ああ!この僕が何をしているのか知りたいのだね?いいだろう…そこまで言うのであれば、教えてあげてもいいよ!実はだね、先程"英雄ばり"の活躍をしてしまってだね?皆が僕を帰してくれないのだよ!いやはや、こうも目立つのは、最早仕方がないこと…そういう星の下に生まれてしまったのだね僕は。おっと、勘違いしてもらっては困るよ!何も、好んで"彼女と戯れた"訳ではないよ!君も知っているだろう?僕は平和主義者なのを!!」

今、妙な、単語が頭上を弾丸の速さで駆けたような…
英雄?戯れた?彼女?平和?
先程、通りすがった、ラウラは噴火しそうな顔を、していた。



「ちょっ…ちょっと来て下さい!!!!」
演説台から無理矢理引きずり降ろす。

「おやおやなんだね君らしくもなくやけに積極的だね、…もしかして寂しかったのかい?仕方がない子だね全く君という子は―」
「仕方がないのはアンタだぁああああああ!!!!!」
群れる聴衆から離れ、角を曲がった途端、ユリアの小さな身体から爆音が放たれた。

「あなたっ…あなたは何をしてるんですか!!あれほど"目立たないように"って言いましたよね?言いませんでしたか!?」
「落ち着きたまえよ!君らしくもないぞそんなに声を荒げるなど、」
「荒げたくもなりますよ!!いいですか!?私たちは"目立っちゃいけない"んですよ!?『メダッチャイケナイ!』意味分かります!?」
「失敬な、僕が理解し得ないとでも思っているのか?そんな東の民でも理解出来るような共通語は分か―」
「だっかっらっ!意味ですよ!!あなた何しましたか!?よりによって!?あの『水の華』に喧嘩を売る!?正気ですか頭は大丈夫ですか!?」

涙をぼろぼろと子供のように流し、眉をハの字に曲げ、必死に事の大きさを伝える。流石にそんな態度で言われれば、自分の咎を認めるだろう。普通ならば。しかし、キリエは、ふむ、としばらく考えるポーズをし、思いついたような表情で答えた。

「頭は無事なのだが、どうにも手が―」
ほら、と火傷だらけの両手を見せる。きゃあ、と短く悲鳴をあげ、傷に気付かずに怒ってしまったことを恥じた。

「だだだだだ大丈夫ですか!?ごっ…ごめんなさい私ったらっ…すぐ"治し"ますね!」
「安心したまえよ、"15分以内に留めた"からねっ!」
「それっ…"ギリギリ"じゃないですか!!」
何を考えているのだ、とまた反射的に叱ってしまう。すると、クスリ、と短く笑い、ふんわり、芳香を放ちそうな笑顔をする。

「君を信頼しているからだよ」
別に目の前の人物に好意を持っている訳ではなかったが、赤面せずにはいられない。黙っていれば端正な顔立ちをしていて、たまにこんな笑顔をされてしまえば(しかも決まって同時に甘い台詞を言うのだ)こんな反応をするしかなくなる。
全く以って、罪な人である(本人には絶対言わないが)。

「私じゃなくて…私の"能力"でしょう…」
誤魔化すために、皮肉を零す。もう、手は元の綺麗な指先を取り戻しつつある。

「優秀な部下がいて、僕は幸せ者だね」
本当に、この人は自分の言葉の重みを知らない。いや、だからこそこんな言葉をさらり、と言ってしまうのだが。

「まあ、どうせここにいるのも今日までだろう?」
だからと言って、騒ぎを起こしてもいいとは、一言もいっていない。"計画"に支障が出たら、この人のせいだ、と心の中で恨む。





「っ!!」
眼をつむり、視界を闇に落としたが、痛覚が消える筈はなかった。それでも、反射的に(悲観的に言えば昔の癖で)無抵抗に身を固めるしかなかった。だが、これは幼少時より受けた理不尽な暴力ではなく、自分に非がある、とはっきり言えるもの。

「うっ…」
「てめぇ…」
胸倉を掴まれ、息につまる。鉄の味が口内に広がる。この味ばかりは、何度味わってもいい気分にはなれない。

「もう止めなよ、ガイさん」
「止めんなよライナス!!コイツはっ…忠告してやったのによりによって、ラウラに歯向かったキリエを助けたんだぜ!?」
「…すいませ―」
「謝って済む問題か!?ああ!?」
更に地から離れる。呼吸が停止した。

「ガイさん!」
ライナスはなだめるように太い腕に縋る。

「ほら…こうやってても目立っちゃうだろ?」
「……ち、」
「ぅ…ゲホッ…ゲホッ…」
やっと握力を弱め、解放されると、咳混じりに呼吸をする。

「おい、ユキ…てめぇの返事はまだ聞いてねぇ。でもな、同室の俺らまで目付けられたらどうしてくれんだ!?それにな、てめぇが寝返って俺らを"売らない"なんて確証はどこにもねぇんだよ!」
「…そ、そんなこと―」
するはずがない、と思わず懇願するような顔をしてしまう。
だが、返ってきたのは、冷たい嘲笑。

「ハッ。どうだか。てめぇ可愛さに、ラウラにこのことバラせば、さっきのことだってチャラにならぁ」
歯を剥き出し、信用できない、と。
ガイは、もしかしたら、ライナスのような濡れ衣ではなく、"本当に罪を犯した"者ではないだろうか。疑惑が確信へと変わる。ギラギラと野心を燃やした瞳には、執念に似たものがへばり付いている。自分に何か不利なことがあれば、暴力を駆使する。
こうも"昔"を想起させるのは、恐らく、似ているからだ。『親』と。
親と言っても名ばかりで、肉親ではなく、"買われた先"だった。同じ境遇の少年少女たちの稼ぎで私腹を肥やし、時には鞭を振るう。不機嫌な時も、そうだ。
そういう時、どうすればいいかは分かっていた。
視線を合わせず、痛いと泣き叫んでもいけない。ただ、耐えるのだ。時が過ぎれば、飽きる。それを、ひたすら待つのだ。
記憶が正しければ、12の時だった(と言っても、正しい年齢ではないと思うが)。
その家を出たのは。
あそこを出れば、何か世界が変わると思っていた。そう、信じていた。
なのに、何故だろう。昔のように、自分は、"何か"を待っている。

(…なんだ―)

「ガイさん…計画は延期したらどうかな…」

「出来るかよ!いいか?デフロットの野郎がいない今しかねぇんだ!!だからこそラウラは今日みてぇな"騒ぎ"を起こせたんだぜ!?アイツは明日の昼には帰ってきちまう!!」

(……結局、僕は、)

「…でも、ユキ君の代わりになるような人なんか…」
「じゃあ、今夜…」
「あ"?」
「今夜、僕が鍵を開けます。開けた後で、看守の注意を引きつけます」
「……お、おい―」
「たぶん、僕はラウラ看長に顔を覚えられてます。逆にそれを利用すれば、」

 (何も、変わっちゃいない)

「全員無事に、出られます」







「道具は…あるの?」
カチャカチャと聞こえる金属音に、確認するようにライナスが小声で尋ねる。だが、それは質問が目的ではないようだ。

「はい。夕食の時間に必要な工具は手に入れましたから」
ブーツの紐を一通り結び直し、最後に固く蝶々結びをする。まだ、大倭にいた頃に身に付けていたらしく、これをするとまるで記憶が蘇るようだった。不思議と、手は震えてはいない。

「まさかこんな時に、盗みの技術が役に立つとは思いませんでしたけど…」
パッ、と得意の作り笑いをライナスに向けた。しかし、彼は自分から話しかけた内容すら忘れているようだった。

「ユキ君…」
「…はい」
「やっぱり…君も逃げるべきだよ…」
彼なら、言うと思っていた台詞だった。ただ、ガイの前では言えなかったのだろう。
あと30分。あと30分で、この計画は始まる。そんな時に、急な変更は出来ない。それに、自身も変更する気は毛頭なかった。

要塞とも呼べるヒルトン刑務所は、『脱獄不可能』という意味でも有名だった。手枷、各牢屋、廊下の見張りなど超えるべき壁の数が多いのは、どの刑務所も同じ。しかし、問題はそこを超えた後の"鍵"にあった。

階段を上がる前にまた一つの鍵があるのだが、これが曲者だった。というのも、正規の鍵以外でこじ開けた場合、その先のルートを一切遮断してしまう造りになっているのだ。もちろん、ルートを変えている間に、包囲は完了している、という流れになる。
軍が発案した代物らしく、まさに要塞のそれだ。現在、重要な機関では、このタイプの鍵が主として使用されており、ブリタニアバンクも例外ではない。

しかし、『脱獄不可能』も、もう昔の話となってしまった。
実はこの鍵には、抜け道、というか"欠落"があるのだ。勿論、遮断されるルートを力技でこじ開ける訳ではない。方法は意外と簡単なもので、"別ルートの鍵をピッキングする"だけなのだ。システム上、後の情報を最優先するようにしているらしく、先に開けた方の通路遮断命令は、破棄されてしまう。
ただ一つ、問題なのは、ピッキングする人間が二人必要なこと。しかも、一人は"犠牲"にならなければならない。
別方向を開けた後、走って先に開けた方へ行けば良いではないか、と言ってしまえば簡単な話だが、ヒルトン刑務所は範囲が広すぎる。走っている間に、自分だけ間に合わずに包囲されてしまう。どうあっても。
そんな馬鹿はいない、とこの方法は、ほとんど取られない。"2回も"これをやる人間など、自分以外にいないだろう。
そう、先に述べたように、ブリタニアバンクでも、この役を担ったのだ。今回は、1回目のように頭蓋骨に銃など突き付けられてはいないが。

「大丈夫。一度開けた鍵ですし、失敗はありませんよ」
また笑ってみせたが、ライナスはその顔を見ないように、瞳を見つめている。

「…この計画自体…おかしいんだよ……最初から、反対だったんだ。…誰かを犠牲にしてまで…出たいとは─」
「お願いです。"そうしてでも、出て"下さい」
何を言い出すのか、と目を丸くした。なるべく、視線を合わせようと、立ち上がる。

「僕も…、自分で馬鹿だと思ってます…でも、どうせラウラ看長に顔を覚えられているし、懲罰房は…確実です。どうせなら、誰かの役に立ちたいんです」
何故分からないのか、とライナスは悔しそうな表情を隠すように、「そう」とだけ返事零した。
"分からない"訳じゃない。学がないとはいえ、"利用されている"ことに気付いてない訳ではないのだ。そこまで馬鹿ではない。
ラウラに目を付けられた直後にこの計画を聞かされ、"納得"をしたのだから。なるほど、自分に声をかけた理由が分かった、と。

『アンタみたいなお人好しは特に、な』

実際に、お人好しなのではない。お人好しを、騙される馬鹿を、演じているのだ。サーカスのピエロのように、喜劇の愚者のように。
抗う、という手段は、とうの昔に捨てた。
"自分の売値買値で言い争っている声を聞いた"その頃から、自分とはこういう運命にあるのだ、と自覚したのだ。決して、悲観的にではなく。自然と。世界とは、"こう"なのだ、と。
そして、それを受け入れ、笑うようになった。へらへらと、馬鹿みたいに。「あいつは人がいいだけの馬鹿だから」そう言われる方が楽だった。
ライナスのために上げた口角は、いつの間にか下がっていた。確かめるように手で触れてみる。

『みんなが僕のことを知りたがるからね!』

急に、キリエのことを思い出す。手で抑えても、笑いが止まらない。
一体、どういう育ちをしたら、あんな性格になれるのだろうか。もし…もしも、"自分も彼と同じ境遇だったなら"。

「………」

ああ、いけない。"もしも"なんて、自分らしくもない。

「…もう少し、早く会いたかったな…」
今更、何かに縋るなんて。






自らの手錠を外し、手のひらを開いたり閉じたりと準備運動のような真似をする。"準備"というのは、勿論、『脱獄』だ。しかも、今まさに、自分は犠牲になろうとしている。先刻、キリエを助けた自分を、ラウラが許すはずがない。加えて10人ほどの囚人を逃がしたとあっては、死刑宣告されたようなもの。
"死"というものは、幼い頃から近くにあった。家も、親もいない孤児が餓死していた姿を何度も見たし、実際自分もそうなりかけた時もある。そういう時は、ああ、自分は死ぬのか、と妙に納得したように静かに理解する。怖くはなかった。道端で細くなっていく子どもたちを傍観するように、自分のことさえ他人事だった。生きたくない訳ではない。そこまで悲観者ではないし、もしそうなのであれば当に自殺しているだろう。ただ、世の中には「どうしようもないこと」というものはあるのだ。自分の手の届かない領域。まさに"神"とでもいうのだろうか。だから、今までの人生は"神の気まぐれ"によって、生かされていたのだ、と。それも今日までのようだが。

「あと、2分…」
時計を確認する。2分後に、警告のベルが鳴り響く。それは、自分が開けた鍵ではなく、脱出するチームがいる方向。そのベルの後に自分が開ける。審判の笛を待つ気分、とでもいうのだろうか。不思議な時間だった。頭の中で、何度もシュミレーションをする。間違えてしまわないように。"死"の恐怖ではなく、"失敗"の恐れによって、手が震える。

長い、長い時間だった。アドレナリンの過剰分泌によるものが、こうまで長いとは。念のため、時計を確認する。ところが、思わず時計を食い入るように見てしまった。
なんと、時間はとっくに過ぎてしまっていたのだ。
まさか、こちらまで警告のベルが聞こえないのだろうか。まさか。それではベルの意味がない。では、何故。何かトラブルが起きたのだろうか。看守に見つかった?いや、見回りの時間を把握して、この時間に決めたのだ。見つかるには、後10分かかる。
あれこれと思案したが、答えが見つからない。しかも、自分の役割を考えれば、ここを動いてもいけない。何度も時計を確認するが、刻々と針が進むばかり。瀬々良の心配も虚しく、ついに、10分ほど過ぎてしまった。


「おかしい…」
そう、何かがおかしいのだ。トラブルかもしれない、という点はほぼ合っているだろう。しかし、看守に見つかったのであれば、『脱獄犯発見』という意味で警告のベルが鳴るはずなのだ。では、運よく看守にも見つからず、鍵がうまく開かないのではないか?という考えも浮かんだが、それは"あり得ない"。看守は15分ごとに各廊下を見回る、というサイクルがある。人の入れ替わりのため、この時間は10分ほどさらに間が空くことが分かっており、余裕のあるこの時間をわざわざ選んだ。しかし、その時間は過ぎてしまっている。更におかしいのは、"こちらにまで見回りの看守が来ない"のだ。脱獄チームも、看守側もトラブルに見舞われたのだろうか?そんな偶然が起こり得るのか?声一つ聞こえない暗い廊下に吸い寄せられるように、ゆっくりとガイ達のいる方向に進むことにした。
いや、進むこと以外に、自分にできることがなかった。その時は、この行為が"最善"だと思えた。

鉄の臭いが充満している。頭がくらくらするほどだ。まさか、と臭いを嗅がないようにするために添えた手が、声を抑える用途に変更されたのは、すぐであった。

「ッ!?!?」
灯りがあるので、看守かと思った。いや、実際看守ではあったが、横たわり、生きてはいなかった。何故見ただけで、"死んでいる"と理解できたかというと、臭いの原因が関係していた。水だと勘違いしていた液体は、血液だった。一面に、廊下いっぱいに広がっている。制服はボロボロとなり、表面の皮膚に無数の切り傷がある。ガイ達が殺したのか。邪魔をされたのなら、殺すこともあるだろう。でも、何故こんな殺し方を?そもそも、致命傷が見当たらない。嬲り殺したのか。"急いでいる"のに?ナイフか何かで、楽しむように、何度も何度も刺した、そんな殺され方だ。
理解のできぬ状況に震えながらも、奥に進んだ。進むしかなかった。まるで「見てはいけない」ものでも見に行くように。

看守たちの死体を避けながら、ブーツが真っ黒になるほど鮮血を踏みながら進んだ。チラっと後ろを確認すると、彼らが持っていたライトが彼ら自身を照らす。死体は、ピッタリ、"見回りをしていたはずの看守"の人数分だけあった。
ここで、何か堰を切ったように、胃の中身が逆流を起こした。我慢する間もなく、恐怖で震える膝も力が抜け、両方を血の海に着けた。一層臭いが強くなり、今度は嘔吐したことと、臭いのきつさに水膜が張る。ぽろぽろと、雨のようにどんどん流れ出る。吐き気は止まったが、涙が止まらない。よく分からないが、「酷い」と悲しむ感情に似ていた気がする。特別看守たち仲が良かった訳でも、博愛主義者な訳でもないが、「同じ人間なのに、どうしてこんなことができるのか」という高説まで出てきてしまった。
ぼやけた視界のまま更に深い暗闇に目を向けると、見覚えのある色合いに、大声を出してしまった。

「ライナス君!」
膝の力は相変わらず入らず、引きずるように腕だけでそこまで行き、揺すってみる。

「ライナス君!大丈―」

無事を確認したいために、揺すった。だが、その動きは、無機質な荷物のように、がくん、と首がこちらを向くだけ。薄いブラウンの瞳は濁っている。

「なん…で…」
なんだって、彼が…、と今度は怒りのようなものが込み上げ、再び震え始める。しかし、またも"混乱"により支配されてしまうのだった。

「…ガイさ…ん?」
廊下の電球が切れかかっていたため、今まで見えなかった更に奥の廊下が数秒だけ照らされる。間違いない。暗闇に慣れつつあった眼がしっかりと捉えた。今晩、脱獄するはずだったメンバーだ。ライナスと同じように、ピクリとも動かず、おびただしい傷跡から、血が溢れている。ライナスを揺さぶった肩から、やっと体温があることに気付く。それは、「まだ生きているかもしれない」という温度ではなく、「ついさっき死んだ」という意味を表していることに気付かず、瀬々良は、奥の暗闇に人影があるとは、思っていなかった。







「分かってますか?」
「ああ、分かっているとも」
「じゃあ何が分かったのか、もう一度言ってみてください」
真剣にそう言ったつもりだったが、返ってきたのは、小馬鹿にしたような吹き出した笑いだった。それについて怒った顔をしてみせると、いやすまない、とまだ笑いながら謝る。

「ユリア君。君は教師にでもなりたかったのかい?」
「へ?」
予想外の返答に、間抜けな声が出る。

「だって、まるで生徒を叱る先生じゃないか!そうだったのであれば言ってくれても良いではないか!この僕を生徒として見立て、練習がしたいんだね?そうなんだろう?まったく…君って人は本当に遠慮してばかりなのだね!!もっとこの僕を信頼してくれても良いんだよ!さあ!!」
飛びこんで来い、とばかりに両手を広げ、声高らかに、体全体を使って表現する"愛"は、この時間帯にはふさわしくなかった。

「おい誰だ!」
「あ…ああ…」
足音と怒鳴り声が廊下に響く。彼は、というと、自体を把握していながらも、それよりも大切なことなのだ、と言い張り、ユリアを受け入れるための体勢は崩さない。

「う…き、キリエさん…の」
「ん?なんだね?いよいよユリア先生の出番かね?」
「馬鹿あああああああああああああ!」
キリエの広いとも言えぬ胸板に飛び込んだかと思えば、両手で首の辺りの囚人服を握りしめ、小さいながらに上に押し上げている。

「なんだねこれは?随分と変わったハグもあったものだ!いやはや、世界広しと言えどもまだまだ僕の知らないことが―」
「な、ん、で、大声であんなアホなこと言ったんですか!今が"作戦中"ってこと分からないんですか!?だいたいいつもいつも私が計画立てているのにことごとく台無しにしてそんなに楽しいんですか!?」
互いが互いに言いたいことをぶつけ合うように大声を張れば、看守に聞こえないはずもなく。足音と呼びかけ合う声は先ほどよりも人数が増えてしまった。それにユリアが気付いた頃にはもう遅く、狼狽しながら絶望的な状況を理解するだけで精一杯だった。

「まったく、君は困った子だよ」
ふう、と軽い溜め息を吐いたのは、騒ぎのきっかけの張本人。恨めしそうに睨みあげるが、なんとも余裕な笑みで返される。

「仕方ないね、この僕が直々に"片付ける"としようか」
「ちょ、ちょっと待ってください!何も殺さなくても―」
物騒な言葉を遮ったのは、またも笑い声だった。

「君はおかしなことを言うね…いつ僕が彼らを"殺す"なんて言ったんだい?」
自分の早とちりだと悟った頃には状況に似合わず、音を立てるほどに顔が紅潮していた。

「僕は"必要な時"にしか、しないさ」
笑顔でもって言われた言葉が、どうにも違う意味に聞こえて、思わず彼の顔を確認してしまった。これ以上、彼が言葉の続きを言ってしまわぬ内に、今度は自身で言葉を遮った。

「そう…ですね…。それに、今夜のターゲットは別にいますし、…ね」
その時だった。


「ライナス君!」

看守のような怒鳴り声でもなく、悲鳴に近いものが廊下を反響する。しかも、聞こえて来たのは反対側からだ。

「ふむ。セセラの声に随分と似ているね…」
「…セセラ?」

聞き慣れぬ単語に鸚鵡返しをする。真丹の国の者だろうか。

「実は今日の昼頃に彼に救ってもらってね、悪いがユリア君。先に様子を見に行ってくれないかい?もしかしたら、すでに『ターゲット』と接触している可能性もある」
最後の言葉に、ピリッと緊張が走り、怒っていたのが嘘のように、「はい」と部下らしく返事をし、その場を後にした。


「お前!何故こんなところを歩いている!!」
入れ違いに看守たちが、銃や剣を構えてキリエを取り囲む。

「何故と聞かれたら、答えてあげたいのは山々なのだが、生憎、守秘義務という面倒なものがあってね。お話できないのだよ。ああ、実に残念だよ」
肩をグッと下ろし、言葉通りさも残念そうな態度をしてみせたと同時に、銃を構えていた数人が、ガクンと床に平伏してしまった。仲間の異変に気を取られた隙に、顎に蹴りを一発もらってしまう。

「ッ!ニューエイジか!?」
そう言ったのを最後に、もう一人も呆気なく、蹴りがこめかみにヒットする。

「ニューエイジの受刑者がいるなんて聞いてないぞ!?」
「それはそうさ」
銃を使うことを諦め、各々が腰にぶら下げているサーベルを抜き、握る手に力がこもる。男は静かにしゃべっていた。元々、目立っていた彼を知らぬ者はいなかった。だが、彼の特徴的な役者染みた喋り方ではなく、とても静かに、感情の抑揚が感じられなかった。ぞっ、とした。

「だって、知られては面倒だからね」
まるで、彼の中の別の人格が話しているようであった。ちょうど、看守長のラウラのように。だが、容姿が変わった訳でも、性格が正反対になった訳でもない。唯一つの変化と言えば、瞳だった。もちろん、ラウラのように色が変化した訳ではない。うまくは言えないが、瞳はドス黒いものが渦巻いているような、まるで"獣"の目だったのだ。

「さて、さようならだ」
悲鳴を上げる間もないまま、皮膚が破け、"天井"に向かって一切の血液が張り付いた。その様子をよく確認しないまま、ゆっくりとした足取りで反対側へと歩いている最中、天井にあった大量の血は、ボタボタと音を立てて床に雨のように降っていた。





状況を理解できないまま、呆然とその場に座っていた。ズボンにはべっとりと鮮血が浸って徐々に体温を奪ったが、気にはならなかった。向こうの方で何か声が聞こえる。ここと同じような事態が起こっているのだろうか。瀬々良は、こんなところに居ては、あらぬ誤解を受けてしまうことも分かっていたが、今はむしろ誰かに会いたかった。生きている者に。だから、電球の切れた廊下の下にたたずんでいた男に対し、特に驚くこともせず、安堵してしまっていた。ああ、やっと誰かに会えた、と。
だが、その男は妙だった。かなり猫背になりながら、歩いてくる。何かブツブツ呟いていたが、よく聞こえない。代わりに心臓の音が聞こえる。勿論、自分のものだ。それは徐々に大きくなり、心臓が耳の傍で生命活動をしているのかと思えるほど、大きくなっていった。

男と目が合った、その時だった。急に窓を開けたかのように、廊下に風が吹き抜ける。そよ風程度でもなく、嵐のように強くもなく、一瞬だけ、周囲を"何か"が通ったように流れたのだ。そして、瀬々良は何か違和感を覚えた。鼓動が速くなったのだ。早くなり、身体全体が熱くなり始める。すると、首筋に生温い嫌な感触が"液体"のように伝う。その嫌悪感に耐えきれず、首に触れてみると、濡れている。雨漏りでもしているのか。呑気に手の平をなんとはなしに確認すると、赤。既に転がっている死体のような変色し始めている色ではない。"今まさに流れ出た"ような色なのだ。

「…え?」

やっとのこと声を出すと、液体は溢れるように流れ出た。熱はやっと激痛へと代わり、痛む場所を抑えるように触れると、そこには"いつも通りの耳"が原型を留めてはいなかった。ごっそりと、半分ほど、ないのだ。
異変に気付き、痛みと血を止めるために両手で抑えるが、そんなもので治る訳もなく、泣くことしか知らぬ赤子のように痛い痛いと繰り返した。どうにかこの激痛を紛らわせようと身をよじらせる。何故こんなことが起きているのかも理解が追いつかず、冷静な判断ができずにいた。救いの手でも差し伸べて貰えるものだと、その時は考えてしまったようだ。妙な目の前の男に、「助けて」と懇願する。今の自分にはそれしかできなかった。

だが、その期待はあっさり裏切られ、男はにやりと笑ったのだ。よく考えれば分かったことだ。"この男の仕業"であるということが。
加えて、ここに転がっている死体の傷の形状も、自分の傷と酷似している。間違いない。ガイやライナス達を殺したのは、この男だ。
立って逃げなければ。壁に縋るように手を伸ばし、二足歩行を覚え始めたばかりのように必死で足に力を込める。だが、震えてうまく力が入らない。その間にも、男はゆっくりとこちらに近づいてくる。
早く、早く立たなければ。早く、早く。

「動くな!」
時間が止まったように感じたが、再び進み始める。それは、女の声で始まった。女は、赤毛をしていて、特徴的な癖毛をしている。手には銃を構えている。看守かと思ったが、囚人服を纏っているではないか。何故、しかも女性がこんなところに。謎が一度に増え、自分に対してではない筈の命令を聞いてしまっていた。
命令された当の本人は、ゆっくりとそちらを振り返り、ニタリ、と笑う。女は再び声を荒げた。

「う、動くな!その人から離れなさい」
引き金を今にも引いてしまいそうなほどに指に力が入っている。圧倒的に不利であるはずの男は、クスクスと笑い始めた。その声は徐々に大きくなる。

「政府の犬が…また俺をあそこに戻す気か?」
「妙な真似をすれば…撃ちます」
「撃てばいい…お前たちはそうやって―」
男が前のめりになり、歩み寄ろうとした瞬間、静かに銃声が響いた。膝から力をなくし、その場に崩れた。額から、どろどろと血が溢れている。終わった、そう思い、自分もその場に座り込もうとすると、赤毛の女性が手を引く。

「立ってください!」
「え?…でも、」
「いいから!これはただの"時間稼ぎ"です!」
縺れる足を必死で前に出し、なんとか走り始める。その背後で、動く筈のない者が、ゆっくりと体を起こしていた。



「あの…どういうことですか?あの人は死んで―」
「あのくらいじゃ"死なない"んです」

何を言っているんだろうか。死なない?脳天を撃ったというのに?理解が出来ない様子に対し、どう説明をするべきか彼女も悩んでいた。

「貴方は何故あんなところに居たのですか?」
「ぼ、僕は…今夜脱獄の計画があって…」
「脱獄…?」
「はい…僕は防犯システムのバグを作動させる役でした…なのでこことは反対ゲートの方に居たのですが…いつまで経っても合図が来ないので来てみたら…」
「なるほど…その計画の首謀者は?」
「…恐らく、ガイ、という白人だと思います」

すると、ガイの名前を数回繰り返し、思いだしたように詰め寄る。

「もしかして、その男…刺青をしていませんでしたか?蜘蛛の」
そして瀬々良も思い出す。そういえば、していた、とこちらも声を荒げる。

「その男は、イドムという組織の一員です。他にもメンバーが捕まっていた筈です」
言われてみれば、何人か同じような刺青を見た覚えがあった。そして、まさか、と思い、問い詰める。


「あの…ライナスって人も居たのですが…その人は…」
「…?いえ、残念ながら聞いたことは…」
「…そう…ですか…」

もしかしたら、自分は彼に騙されていたのでは、と思ってしまった。何を馬鹿なことを。しかも彼は死んだではないか。そんな者に対して、まだ疑いを持つなど。

「とにかく今は一刻も早く―」
銃の残弾を確認している手が止まる。不思議に思い、どうかしたのか、と声をかけると、ゆっくりと肩の方を見る。同じように彼女の肩を見ると、赤黒い染みが広がり始めている。しかも、肌が少し露出しており、パックリと割れた断面が見える。
急いで壁を背にし、その向こうを見るようにして、苦々しく呟く。


「追いつかれた…」
「は、早く止血を!」
すると、待て、と手で制す。そして、その手で、肩に触れると、一瞬で囚人服の破けた所まで修復してしまったではないか。次に、そのまま瀬々良の左耳に触れると、痛みがすっ、とひく。自ら確かめると、元通りの形になっている。


「君は…」
「すいません…なるべくならお見せしたくなかったのですが…貴方の推測通り、ニューエイジです。私の能力はクロノグラフ。物質の時間操作です」
ですから、と続けて手を壁のに向ける。地響きと共に爆音が木霊す。あまりの揺れに立っていられず、その場に倒れ込むように座ってしまうほどの衝撃だった。

「い、今のは…?」
「時限爆弾の時間をスタートさせたんです。昨日仕掛けておきました。あまり長い時間止めておけないのですが…」
「けっこう…危ないことするんですね…」
空笑いをしてみると、彼女もつられて笑う。

「私の能力…弱いのでこういうことで補わないとでして…」
「弱いなどと謙遜を!君の能力は素晴らしいではないか!!そう、例えるならば、夜空に輝く星のように!」
「キ、キリエさん!」
「やあ、お待たせマドモアゼル」

星でも飛んで来そうなほどのウィンクをすると、女は泣きながら飛びつく。


「遅いですよおおお!すごく怖かったんですから!!!!」
「キリエさん…」
「やあ、セセラ!君の方も間に合ったようだね!良かった良かった」
にっこり、と美しく半月に口角を上げると、女をそっと自分から離し、その長い髪を翻すように、背を向けた。



「さぁて、仕事だ」

瀬々良は見た。彼の瞳を。正確には、その"濁り"を。濁りと表現していながら、それは、とても澄んでいた。例えるなら、底が見えぬ、深海の暗さに、似ていた。



穢れた泥を啜り、
育つ蓮は美しい花を咲かせる

それを人は
「強く、逞しい」
と言うけれども




濁りに染まぬ 蓮

僕には酷く、恐ろしく見える



なんだかバトルな雰囲気ですね。次回はさらにバトルかもしれんです。